1935年、築地さんは中国の上海で生まれました。
幼い頃に、父は戦死し、ほどなく、母は再婚。築地さんは、母親と離れ、祖父に引き取られました。


築地さん:
「お母さんの持っとったような物を…お母さんのにおいがするとかね。やっぱり自分で懐かしんどったね」

上海で、祖父母と叔母に育てられた築地さん。特に、叔母キノエさんは築地さんにとって特別な存在でした。

築地さん:
「母親代わりをしてくれたのがこの人なの」
香蓮さん:
「この方が。へー」
「子どもの頃から、絵を描くのは得意だったんですか?」
築地さん:
「うん、好きやったね。飛行機か軍艦か描くのが、自分たちの絵を描く材料なのよ。内地で発行されとる『少年倶楽部』の表紙に選ばれたのが、僕と絵の出会いやね」


1944年、戦況の悪化で一家は内地に引き揚げることになり、浦上天主堂そばの長崎市本尾町に家を構えました。


香蓮さん:「このへん?」
築地さん:「そう、この一画ね」
香蓮さん:「はぁ、ほんとに天主堂のすぐ下で。へぇ、ここで…」


築地さんは当時クリスチャンではありませんでしたが、浦上天主堂は特別な存在であり、身近な遊び場でもありました。

築地さん:「畑の上に丘があって、丘の上にそびえとった」
香蓮さん:「じゃぁ結構シンボルというか」
築地さん:「そうそう、だから当時はね、東洋一って言われよったもんね。これは春、桜の時期ね」

(レンガ造りの浦上天主堂と満開の桜の絵)
香蓮さん:「わぁ、桜がすごいですね。わぁ~」

そして、1945年8月9日──

香蓮さん:「当日何をしてたとか、当時のこと覚えてますか?」
築地さん:「そうねぇ…」

あの日、築地さんは、祖父からおつかいを頼まれました。

築地さん:
「うちのおじいさんが町内会長やった。そいで回覧の主だったものが…書類が来とった。これを隣の町内の会長さんの家に届けてくれと。で、10時半ごろ自分の家を出たわけ。もうそれが最後だわな」

爆心地から600メートルほどにあったお宅に回覧を届けた築地さん。
玄関先で休ませてもらっていたその時──



築地さん:
「ピカーッと、ちょうど、あの…どう言うたらいいかな。よくみんなから『どんな色?』って言われたら…表現の仕様がない。あのー、うん、昔で言うストロボ。フラッシュ。カメラのフラッシュを焚く”あの色”が説明できんように…青いか、白、透明か、黄色かわからない。ああいう光がバーッと真昼間やん、11時なんだから。それよりも何倍も明るい光が…と同時にドーンというか、地鳴りというか…家が潰れたわけ」