戦死した搭乗員…梶原龍三さん

(戦死した搭乗員の甥 梶原五昭さん)「山並み、空。おじさんも眺めていたと思うと本当に感慨深い」
梶原龍三さんの甥で愛知県に住む梶原五昭さん(79)です。五昭さんと共に龍三さんの故郷である甑島を訪れました。
龍三さんは6人兄弟の3男。父親は大工の仕事で大けがをして働けず、貧しい子ども時代を過ごしたといいます。

(戦死した搭乗員の甥 梶原五昭さん)「小学校時代を、食うや食わずで過ごす、自分の立つ瀬がない、反骨精神が半分。大きなことをしてやるという気持ち」
貧しさから逃れるため、龍三さんは海軍通信学校に入り、飛行機の偵察員になりました。そして、1942年1月・フィリピンで龍三さんは大きな功績を挙げます。龍三さんが書き残したメモに、その時の様子が鮮明に描写されていました。

(龍三さんが書き残したメモ)
「機長は敵の集中弾に壮烈なる機上戦死」
「鮮血は席全部に広がる、飛行服は赤に染まった」
ほかの搭乗員2人が戦死する中、龍三さんは顔に大やけどをしながら自ら操縦桿を握り無事、生還しました。この戦いがたたえられ、上官から故郷・甑島への凱旋を命じられました。