1945年7月28日は、島根県側でも列車空襲がありました。
資料によると、午前11時58分、山陰線の湯町、現在の松江市の玉造温泉と乃木の間で停車していた列車めがけて、米軍が機銃掃射を仕掛けました。
死者14人、負傷者19人とされています。

影山 峰万 さん
「建物壊した材料のくぎ抜きを、朝から晩までくぎ抜きばっかしだった。」
当時13歳だった影山峰万さん。
実家の雲南市掛合町から姉と2人で、木次駅から列車に乗り、松江に向かっていました。
影山 峰万 さん
「私は1両車と2両車の間に乗った。姉と2人で。停車するとみんなが降りて空を見る、グラマンが行ったり来たりするのを。4機でした。上空を旋回して、そのうちの1機が急降下しておりてきた。」

戦闘機が急降下する中、空からは丸裸の車両と車両の間で、影山さんは必死に身を隠したといいます。
影山 峰万 さん
「その場でしゃがみました。しゃがんでおるとやがて撃ちますわね。グラマンが上にあがると助かったと。それが4回ありました。私がしゃがんでおる横に姉がしゃがんでおる、その横のところに弾が当たって、床を貫通して線路の砂利が見えた。」
命拾いした影山さんは、姉と近くの山に一目散に駆け上がりました。
そこには、負傷した乗客の痛々しい光景がありました。
影山 峰万 さん
「ひざを撃たれていた。骨が見えた。手当をしていた人に『あんたら縛ってあるタオルを両方から引っ張れ』と言われて止血した。」

さらに、学校で歴史を習っていた先生に声をかけられます。
影山 峰万 さん
「『影山君』と声をかけられ、みたら工業学校で歴史を習っていたワタナベ先生だった。目をおさえていて、『あんたタオルか何か持ってないか』と言われ、瞼の上を撃たれていた。まともに撃たれずによかったが、2学期になって学校に行ったら先生の眉毛は半分なかった。」