太平洋戦争の末期、山陰線を走る列車が米軍機の機銃掃射を受け、乗客らが犠牲になった「大山口列車空襲」と「玉湯列車空襲」。
あれから77年…当時を知る2人の男性が列車空襲について語りました。
 

2022年7月28日。
慰霊碑の前で、犠牲者への追悼と平和を願う黙とうが捧げられました。

太平洋戦争末期に山陰の空を襲った2つの列車空襲は、今年で77年を迎えます。


1945年7月28日午前8時頃、
鳥取県大山町の大山口駅近くに停車していた列車が、米軍機の機銃掃射を受けました。

列車は、負傷した兵士や勤労学徒などでほぼ満員の状態。
この空襲で、45人以上の命が奪われました。

安江 英彦 さん
「キキ―ッという音と共に、列車が境内の線路の上に停まったわけです。」

当時、小学4年生だった安江英彦さん。
実家は、大山口駅から6キロほど離れた米子市淀江町の日吉神社です。

境内の中を走る線路上で列車を目にしました。

安江 英彦 さん
「人の姿は全然見えないし、人の声も聞こえない。近づいてよくよく見たら、1両目の客車のデッキに人の死体が折り重なっていた。死体からは、どす黒い血がポタリポタリと線路に落ちていた。恐ろしいとしか言うことはない。」

死体が折り重なる列車を前に、安江さんは戦争の惨さを悟ったといいます。


安江 英彦 さん
「生きていると思われる人は。大山口駅で降ろすわけです。もうこれは助からないと思われた人だけを乗せて米子駅に運ぶ。途中でまた空襲警報になる。それで、日吉神社の森に入れば安全だということで停まったのではないか。戦争はこういうものかというのを強く感じた。」

その中で、安江さんは2人の乗客の「生」と「死」を目の当たりにします。

安江 英彦 さん
「中年の男性は、自力で線路に出てきて線路に倒れて、助けてくれ助けてくれと叫ばれたわけです。」

男性は重傷を負っていましたが、手当を受けて一命を取り止めました。

安江 英彦 さん
「もう1人は若い女性です。駆け付けてきた家族が死体の中から見つけて降ろしたが、もうすでに息はありませんでした。母親が死体に取りすがって泣き叫んでいました。『私に代わって勤労動員に出したばっかりにお前を死なせてしまった』と。」

安江英彦さん(86)


母親の代わりに勤労動員に行くため、列車に乗って帰らぬ人となった娘。
境内には、その場にいた者のすすり泣く声が響いました。