高野山大学に入学 僧侶として修行の始まり

高橋
「昭和大仏を作られたその方の弟子として高野山の方に上がりました。(注:昭和大仏…昭和59年に青森市の青龍寺に造立された大仏)
高野山では、大学に通うための住み込みの場所、真田坊蓮華定院という所から、大学に通っておりました」
僧侶になるために日本中から人が集まっている高野山。それぞれ切磋琢磨しながらの修行時代。

高橋
「正座がきついなというのと、言葉が最初わからなくて3ヶ月くらいは下北弁でずっと話してましたので、それでちょっと大変でしたね」
修行の苦難を乗り越え、高野山から東京・四谷にある師匠のお寺へ。一番下の弟子として修行が続いた。その後、師匠が寿命を全うした。ショックは大きかった。
高橋
「ずっと住み込みで一緒におりましたので、心の中にポッカリと埋めきれないようなものができました。そこで、『住み込みではなくて通うことにします』ということで、結婚をして(お寺まで)通うようにしました」
そんな中、子供が生まれた頃、生死をさまようほど大きな事故に遭う

高橋
「子供が生まれた年に実は私、…バスにひかれまして、引きずられまして。
(事故当時)最後に記憶にあるのが、大きいタイヤが顔の所に迫ってること、手がまず動かないですし、筆も書けない。今は何とか動いてますけれども、そういう状態で『あの人はお坊さんを辞めたんだ』という言い方をずっとされましたから、しかも(実家が)お寺の出身じゃないから『もうお坊さん辞めたらいなくなるんだろう』そういうのをずっと言われまして…」

窮地に立たされたときに、自分から去る人、残る人。それは改めて、自分と他人というものを考えるきっかっけになった。

高橋
「縁の重なりで今、副住職として20日以上、弘法寺におりますので、そこでまた次の縁の繋がりっていうのができるんじゃないかなと。
みんなが笑っていられる、そういう地域を目指して、そして後進を育てていきたいと思います」

高橋の挑戦は続く。