県外で活躍する青森県民を紹介するターニングポイント。人生の転機となったそのとき、どのような思いや決意があったのでしょうか。
今日のストーリーは、弘前市出身で株式会社ユニバァサル設計 常務取締役 柳田一弘氏。
建物のデザインから電気設備に関しての設計を一貫して行っている会社・ユニバァサル設計で、常務取締役として働いており、さらに2022年から東京青森県人会の会長としても活動している。
兄と妹の3兄弟だった柳田は、父親の影響から野球少年だった。

柳田「親父が野球をやってたんでその影響で野球を続けてきた」
高校の進学先を決める頃、兄と同じ高校か野球の推薦で高校に入るか悩んだという。
柳田「何でもかんでも兄貴の後ろをくっついて歩いてて、学校の先生からこれから高校の先生が行くからちょっとあの話を聞いてみてくれと、あの野球で来てくれと。そのとき本当に兄貴の学校に行きたかったんだけども、高校を野球のためにそっちの選択にするかということでいろいろ悩みましたね」

高校卒業後は社会人野球チームでパワーヒッターとして選手を続けた。必死で続けていた野球だったが、24歳のときに肩を壊し、選手としての道を断念。しかし、違う形で野球を続ける道が開かれる。

柳田「『柳田さんは眼鏡かけているのでプロ野球の審判はできませんよ』と。『ただ、これからオリンピックがあるじゃないですか、そこを目指して(野球の審判を)頑張ってみたらどうですか』っていうふうな形で。今度逆に審判をやることによって(今までよりも)もっと大きな舞台でできる可能性があるっていうのを先輩方に教えていただきまして。ノンプロの審判であったりとか、大学の審判の方に入らせていただきました」

30歳の頃、野球の審判と同時に会社に勤めるようになる。経理をやることになり、朝から晩まで簿記や会計の勉強を始めた。これが今の仕事へと繋がっていく。
柳田「たまたま近くに良い税理士がいまして。いろんなことを勉強しながらいろんなことを教えていただきました。その10年間で勉強しました。近くにいた方々にサポートしていただいて、そこで一つの決断をして。またそういう方向に進めたということだったと思います」
40歳で中小企業診断士の資格を取得し、独立。コンサルタントの仕事1本でやっていこうと決め、23年間務めた野球の審判を引退。そして去年、故郷青森への貢献の一つとして、東京青森県人会の第13代会長に就任した。

東京青森県人会 小畑智恵さん
「首都圏にいらっしゃる関西も含めて青森の人たちのために青森を盛り上げようというお気持ちがあふれ出ている方で、本当に素晴らしいあの会長として、バッチリ適役な方だと思って、楽しく拝見しております」
野球の審判から企業のサポートへ。さらに、東京から青森のサポート。柳田は縁の下の力持ちだ。

柳田「何となくサポートするってのは自分に合ってるのかなっていう形で、やっぱり自分でことを起こすよりも、何か2番手に必ずいた部分があったんですね、当時は。それでやっぱりサポートする立場というところで入り込んだと思います」
柳田「将来的にはやっぱり自分の人生これでよかったなという形に思える、やっぱりいろんな面で学んでいきたい。元気なうちに青森に帰って、いろんなことのお手伝いをしたいという風に思っています」