被爆地長崎から核兵器の非人道性を訴えるシリーズ「NOMORE」。

今回は2月で98才、19才で被爆し九死に一生を得た女性の体験を紹介します。

79年前一握りの科学者しかその力を理解できていない中、人類史上初の原子爆弾は広島と長崎に落とされました。


存命の被爆者はいま11万人あまり、毎年およそ9千人が亡くなっています。当事者から直接話を聞ける時間はあと10年あまりです。

長崎市のスーパーで働いている陣野トミ子さんは、来月で98才になります。

爆心地からおよそ1キロで被爆し、生き延びました。

・生まれたのは太平洋戦争が始まる15年前。

●陣野トミ子さん(97)「昔ほらこんなして(正装して)お諏訪さん行きよったと」

実家はたくさんの従業員を抱える「小料理屋」を長崎検番の近くで営んでいました。

●陣野トミ子さん(97)
「(外に行ったら)お菓子ばいっぱいもらって帰ってきよったけん、あんたはどこに行っとったとねって言われよった」

1945年8月9日トミ子さんは今の長崎市文教町にいました。

・岩屋橋交差点で二股に分かれる道の形は当時と変わっていません。

道に挟まれた三角地帯には真珠湾攻撃にも使われた「魚雷」を作る三菱兵器製作所大橋工場がありました。今ではその大部分が長崎大学のキャンパスになっています。

陣野トミ子さん「変わったですねー」

11時2分、トミ子さんはコンクリートの建物、「技術部」の地下室にいました。轟音と共に吹き飛ばされ気づいた時には髪はちぢれ半裸状態になっていました。

トミ子さん「ドン!と言うたかと思ったら玄関が開いとったから砂が入り込んできた」「部屋から出てきなった人のおんなっとさね…見たらお化けと一緒やった。血だらけになって」「(他の建物から)「出して、出して」と手ば出しなっけどどうもしきらんですもん。「私一人でどうもしいきらんけん呼んでくるけん待っとかんねね」って言ったら「うん待っとく」って言ってどうしなったか分からん」

原爆は爆発から1秒後直径およそ280mに表面温度は太陽と同じ5千度細胞を破壊する放射線をまき散らしました。

長崎の町には三菱系の軍需工場が立ち並んでいて市の内外から中学生たち学徒動員を含む膨大な労働力が集められていました。

・爆心地から北に1・3キロの大橋工場にいたのは当時およそ6千人。木造の建物は吹き飛ばされコンクリートの建物も鉄骨が波打つ無残な残骸にー。

偶然にも地下にいたトミ子さんは何人もの人を踏みつけ逃げたといいます。

トミ子さん「手のなか人、足のなか人多かったですよ。包帯もなかけん出とるですたい。もうこうしてからごめんなざいってして帰って来た。もう人のだんじゃなかと自分が先。」「(同じ工場で働いていた)妹は自分で帰って来たですよ。やけどで…寝たきりになってしもうて」

大橋工場の跡地には被爆の7年後、三菱の従業員によって『供養塔』が建てられました。



碑にはトミ子さんの同僚たち2273人の名前が刻まれています。

トミ子さん「そこにおる田川久米子…隣同士で仕事しよった。おったとねって…」「思い出すね。一緒にご飯食べたりさ逃げて回ったり。朝一緒に逃げたとよ」

同じ工場にいた妹の信江さんは後に寝たきりとなり、16年後に亡くなりました。凄まじい破壊力と放射線で人生を破壊する原子爆弾。

トミ子さん「ごめんねっていうより他ないですよ……私一人ではあなた達の仕事しいきらんよって(命を背負えないよって)思いますよ」



被爆地長崎から核兵器の非人道性を訴えるシリーズ「NOMORE」。古川記者の報告でした。