事件からおよそ半世紀、入院した末期がん患者は「桐島聡」という衝撃の名前を名乗り、その後死亡しました。手配写真の顔だけは有名ですが、いったい彼は何をして、それはどんな時代だったのか。一連の連続企業爆破テロ事件の裏には『腹腹時計』という名の「教科書」がありました。(アーカイブマネジメント部 疋田 智)*文中敬称略

70年代過激派テロの代名詞「連続企業爆破事件」

桐島容疑者が所属していたのは過激派組織「東アジア反日武装戦線」。この集団は1974年から1975年にかけて、あわせて11件にのぼる連続企業爆破事件を起こしました。
1974年に東京・丸の内で起こした三菱重工ビル爆破事件では、正面入り口に置かれた爆弾が爆発し、死者8人、重軽傷者380人を出す大惨事となりました。

過激派グループは、爆破された企業はいずれも「日本帝国主義の尖兵」だと主張しました。

桐島容疑者は、「東アジア反日武装戦線」内のグループ「狼」「大地の牙」「さそり」のうち、「さそり」グループの一員で、韓国産業経済研究所の時限爆弾事件などに関わったとされています。

未遂に終わった「昭和天皇暗殺計画」

一連の爆破事件には「未遂」ではあるものの、昭和天皇暗殺計画もあったといいます。
昭和天皇の御料列車が通るのにあわせて鉄橋を爆破しようというのがその計画で、用意した爆弾はダイナマイト約700本分にもあたる強力なものでした。

犯行グループが用いた強力な爆弾「セジット」(当時の警察による見本)。

しかし、犯行予定現場の橋「荒川橋梁(赤羽-川口間)」の下には、正体不明の人物がいて、それを公安警察ではないかと誤解した犯人グループは、計画を「延期」しました。
そして、同じ爆弾を三菱重工爆破事件に流用し、大惨事を引き起こしたのです。
爆弾は彼らが自作したものでした。

『腹腹時計』の衝撃

なぜ彼らはこんなものを作ることができたのか。じつは彼らには時限爆弾作りのマニュアル本がありました。その名も『腹腹時計(はらはらどけい)』。
本というよりも冊子です。しかし、この通りに材料を集め、この通りに作れば、素人でも時限爆弾が作れるという、非常に「実用的」なものでした。

『腹腹時計』は東アジア反日武装戦線「狼」名義で発行されていました。

これが地下出版され、左翼系の書店で現実に売られ、過激派にばらまかれたのです。
彼らは潜伏したアパートの床下に小さな工場を作り、日夜、爆弾製作にいそしみました。

しかし一方、この冊子が警察の目にとまり、材料の入手先などから、容疑者の足がつくようになったのです。

『腹腹時計』は驚くほど緻密で、mm単位まで指定して懇切丁寧に爆弾の作り方を手ほどきしていました。

メンバーの逮捕

1975年5月。大道寺将司容疑者(当時・後に死刑囚)をはじめ犯行グループのメンバー8人が一斉に逮捕されました。
ほぼ唯一、完全逃亡を果たしたのが、今回の桐島聡容疑者でした。
彼の行方はようとして分からず、警察は、世界に悪名を轟かせたテロの後始末として、威信を賭けて全国に指名手配したのです。

1975年当時、桐島容疑者が潜伏していたとされるアパート。

彼が何をしたのかは知らなくても、写真だけは見たことがある。
そういう人が多いのはそのせいです。

住み込みの工務店従業員として

逃亡からおよそ半世紀。桐島容疑者を名乗る男は死の直前まで、神奈川県の住み込みの工務店従業員として、世間から身を隠していました。偽名は「内田洋(ウチダヒロシ)」。
老いて、頬は痩せこけ、風貌はまったく変わり、度の強いメガネだけが以前と変わらなかったといいます。