2021年2月1日、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。その朝、1人のミャンマー人医師が、生まれ故郷の異変を言葉にしてスマートフォンの動画に残していた。「私たちの未来が、私たちの国が、音を立てて崩れていく…」。そこには、一夜にして世界が変わる恐怖と悲しみが刻まれていた。あの日から3年。医師はいま、日本で難民認定を求めている。軍事政権に翻弄された日々を追った。
(元TBSテレビ社会部長 神田和則)
NO NEWS,NO RADIO,NO TELEVISION,NO INTERNET…
「おはようございます。みなさん、〇〇(実名)です。私はいま〇〇の町(医師の故郷)にいます。2021年2月1日午前10時10分。朝3時ごろから、すべてのインターネット回線、携帯・有線電話網が切断され、テレビも放送していません。ラジオは1局だけ聞けますが、ニュースはまったく流していません。まるで30年前に戻ってしまったかのようです」
スマートフォンに残された動画で、流ちょうな英語で語るのは、30代の男性だ。ミャンマーの医大を卒業して医師の資格を得た後、米国系製薬会社の地元支店に勤めた。しかし、国の民主化に関わるには政治学の勉強が必要だと考えて日本の大学院に留学した。
20年2月、春休みで一時帰国した直後、コロナ禍が世界に広がり、日本に入国できなくなった。やむなく故郷に残り、地域のメディアの依頼でコロナやDV問題に取り組むプロジェクトに参加した。
11月の連邦議会選挙では、民主化運動のリーダー、アウン・サン・スー・チーさん率いる政権与党が圧勝した。
21年が明けて、コロナ禍はようやく落ち着きを見せ始め、復学が決まった。1月31日の夜は、友人らが日本語の先生の家に集まり、日本のカレーで送別会を開いてくれた。
「コロナも収束に向かい、新しい政治が始まり、学校にも戻れる。すべてが前に進もうとしていた。本当に、本当に希望でいっぱいの夜だった」
その翌朝、異変が起きた。動画の中の医師の表情には悲壮感があふれている。
「幸い電気は通じている。しかし、外の世界で何が起きているのかがわからない。とても不安、とても心配だ」
「きょうは新しい政府、新しい議会が始まる日だ。選挙で選ばれた議員が、準備のために首都ネピドーに集まり、本当は、いま、新議会が始まっている時間のはずだ。なのに、そこで何が進行しているのか、わからない。ニュースがない、ラジオがない、テレビがない、インターネットからも携帯からも情報が取れない。いま起きていることを、他の多くの人々のために、歴史として、記憶として残す。私の国を、我々の政治リーダーを、大変心配している。でも、どうしたらいいのか、わからない」
言葉は次第に涙で途切れていく。
「どうか…、どうか…、ここで私たちに起きている苦難を、みなさんの心にとどめてほしい…、この後どうなるのか…、わからない…、私たちの未来が、私たちの国が、音を立てて崩れていくような思いだ…、この後どうなるのかわからない…、もし、誰かがこの動画を見つけたら…、次の世代のための記憶として…、私たちのことを思ってほしい…」
医療従事者への弾圧が激化、日本へ
クーデターが起きたと確認できたのは、昼ごろになって業務用のWi-Fiが通じる友人宅で国外メディアの報道に接したからだった。
医師は「もし、自分が軍事政権と闘って亡くなったとしても、この日の気持ちを動画に残しておけば、きっと誰かが見てくれて、悲しい記憶を語り継いでくれるだろうと願った」と振り返る。
軍への抵抗、抗議は各地に波及した。医師は、医療従事者によるデモの先頭に立ち、ハンドスピーカーでシュプレヒコールを繰り返した。同時に軍や警察の暴力によって負傷した市民を救助する緊急医療チームを立ち上げた。
3月初め、最大都市ヤンゴンで起きた衝撃的な映像がインターネット上に流れた。複数の警官が救急車を停止させ、無抵抗の救急隊員を路上に座らせた後、力任せに蹴りつけ、銃床で殴打する場面だ。命が奪われかねない激しい暴行が何回も繰り返された。国連の事務総長特使(ミャンマー担当)は「心をかき乱す映像」と語った、と報じられた。

医師は映像を見た直後、アメリカのインターネットメディアのインタビューに応じ、実名、顔出しで訴えた。
「国軍と警察はテロリストだ。あらゆる国際社会や組織が、彼らをテロリストとして扱い、私たちを助けるためにできることをしてほしい。私たちは本当に無力。犠牲にできるのは自分の魂しかない」
このころ、家庭教師をしていた子どもの親から、自分が逮捕されるおそれがあると知らされた。ほとんど自宅に戻らず、郊外の秘密の場所を転々とするようになる。
3月25日、医師の町でも実弾がデモ隊に向けられた。28、29日には1人が亡くなり、20人以上が重傷を負う。
医師は全国的な緊急医療チームの会合にリモートで参加し、仲間とともに州の組織で中心的な役割を担う。しかし、病院、診療所、救急隊員など、デモで負傷した人を救ってきた医療従事者への弾圧は残忍さを極めていく。身に迫る危険を感じて、7月、日本に逃れた。
「安定した在留資格を得て、ミャンマーの人たちのために尽くしたい」
来日後も、民主派が設立した国民統一政府(NUG)の保健省と連絡を取り合い、出身地の州の保健管理チームの一員として、感染症の予防接種の方針策定やWHO(世界保健機関)、ユニセフとの会議資料作成などに積極的に協力した。
しかし、極度の緊張感とストレスから刑事裁判に問われる事態を招き、21年11月、執行猶予付きの有罪判決を受けた。本人の反省の念も深く、判決確定から2年余りが経過して再起を図っている真っ最中であることを考慮して、こういう書き方にとどめたい。
医師が当時を語る。「日本に来て2週間後、ミャンマーで2人の仲間が逮捕された。その時、軍は私も狙って探していたことがわかった。このうち1人は重労働2年の刑を言い渡され、もう1人はひどい拷問を受けた後、亡くなった。22年3月には義兄が拘束され、厳しい尋問で私との関係を聞き出した。みんなが闘っているのに自分だけが生き残る罪悪感、医師であるのに何もできない後ろめたさ、慣れない日本での生活などがすべて重なって、そこから逃げたい気持ちが先立ってしまった。でも、これではいけないと考え直し、自分から警察に名乗り出た」
判決後、入管当局は退去強制手続きを開始し、23年10月、退去強制令書を発付した。
だが、明らかに命の危険が及ぶ祖国に帰れるはずもない。医師は退去強制処分取り消しなどを求める裁判を起こすとともに、難民認定を申請した。
いまは、仮放免の立場にある。仕事は禁じられ、健康保険にも入れない、定期的に入管に出頭しなければならない。
「先のことが考えられない。やらなければならないこと、やりたいこと、自分にできることはたくさんあるのに悔しい。いまの状態では人間らしく生きることができない」
裁判で代理人を務める渡辺彰悟弁護士は「クーデター後、医師・看護師を中心に不服従運動(CDM)が広がったことから医療従事者は軍や警察の標的となった。難民条約の送還禁止条項の趣旨からすれば、ミャンマーに返せるはずはない。これほど難民性の強い人はあまり見ない」としたうえで、「入管当局は、日本での在留を希望するミャンマー人に在留や就労を認める緊急避難措置を打ち出しているが、少なくともこの措置は、医師のような人を救うためではないのか。強く主張したい」と述べた。
私の取材に真っ直ぐ前を見て語った医師の姿が、忘れられない。
「日本で生活して、日本の人から相手を思いやることを学んだ。年齢も重ねて、人生で何が大切なのかはわかっている。できるなら、すぐにでもミャンマーに帰りたいが、いまは安定した在留資格を得て、ミャンマーの人たちのため、国作りのために、私ができることを尽くしたい」