イブニングニュースでは、戦後78年を迎え、語り継ぐことが難しくなっている戦争証言をお伝えしています。【写真】は、空襲後の岡山を撮影した1枚で、焼け野原に立つのは天満屋です。岡山にお住まいの方なら一度は目にしたことがあると思います。

この写真を撮影した男性に横浜で会うことができました。現在102歳の彼は何を思い、当時、カメラを構えたのでしょうか。

空襲後の焼け野原の岡山の写真 撮影したのは現在102歳の男性

(吉田堅さん)
「これは『歴史的な写真』『歴史に残すべき写真』。これが天満屋方面を撮った写真。二度と起こすべきではない」

焼け野原となった岡山市街地の写真。岡山空襲展示室にも常設されている、岡山空襲を物語る象徴的な1枚です。

見せてくれたのは、今年102歳を迎えた吉田堅さん。78年前、自ら撮影したものです。

(吉田堅さん)「そのときには『当然この写真は撮っておくべきだな』という使命感がありました」

いま、横浜市の高齢者施設に1人で暮らす吉田さん。1921年に現在の瀬戸内市邑久町に生まれました。

1941年 発熱で戦地への派遣を招かれた

その吉田さんは1941年、20歳のときに徴兵検査に合格。陸軍の訓練も受けましたが、途中で発熱したことなどから戦地への派遣を免れました。

(吉田堅さん)「これが運の分かれ目ですね。外地に行った連中は、南方へ行くことになって、あそこへ行ってほとんど全滅した」

旧制中学を卒業後、日本銀行岡山支店に就職した吉田さん。戦争が日に日に激化する中、職場の同僚男性も次々と戦地へ旅立ちました。

1945年6月 岡山空襲の夜に

そんな中、今でも忘れられない1日を経験します。

(吉田堅さん)
「現地に行って、戦争をしているのと同じような目に遭っているわけですから、みんな。軍人でないものがむしろひどい目に遭っている」

1945年6月29日、1700人以上の死者を出した岡山空襲です。未明の1時間半にもわたる攻撃に、なすすべはありませんでした。

(吉田堅さん)
「『爆弾が落ちてくるのは時間の問題だ』と。バケツに水を入れて、『落ちてきたら消してやろう』と。まだ考え方が幼稚ですよ。そんなに大規模な空襲で、全部やられるとは思わなかった」