戦後78年の夏を迎えました。終戦までの5か月間、大分県内は各地で空襲の被害を受けました。当時8歳だった男性に大分市の空襲の記憶と平和への思いを聞きました。
太平洋戦争末期、大分にも幾度となく米軍の戦闘機が襲来。およそ85回の攻撃による死者は485人に上りました。アメリカ軍が終戦の半年後に撮影した大分市中心部の様子です。一面が焼け野原にー。大分市は県内で唯一、戦災復興都市に指定されました。


あれから78年ー
(井口キャスター)「見た感じはずいぶん変わりました?」
(加藤泰信さん)「まったく違う。木造の家屋がほとんどないですね」

大分市の加藤泰信さん(86)。戦時中は現在の顕徳町に住んでいて、度重なる空襲を目の当たりにしました。
6千発の焼夷弾で国民学校は跡形もなくなくなる
(加藤泰信さん)「家の離れに命中してその時の破片がこの近所の家の中にあちこち来た」
当時8歳だった加藤さん。6000発の焼夷弾が投下された1945年7月16日の空襲で、通っていた国民学校は跡形もなくなりました。自宅近くの機関庫や線路をめがけて爆弾が投下される日々だったと振り返ります。

(加藤泰信さん)「線路を渡って向こう側に爆弾穴がいっぱいあった駅と機関庫が(攻撃対象の)中心、この辺では。大分商業の生徒だった方が空襲の後片付けに行って不発弾があった全身やけどで一晩で亡くなった」