比嘉秀子さん
「私たちが避難したおうちは、屋号はクラサ、性は山川、そこはおじいちゃんとおばあちゃんが二人いました」「宮里というおうちの家庭は私と同じ年のネーネーがいたんですよ」「向こうで一緒に遊んだことも忘れません」
その時に出会ったのが、国頭村で着物を持ち続けていた吉子さんら家族です。この出会いが、秀子さんたちを救うことになります。
比嘉秀子さん
「私たちはこれは食料が無くて、お米と交換したんですよ。普通だったらお米と交換したんだから向こうのもんでしょ?宮里家の祖先にとても感謝いたします」
秀子さんのように「着物の持ち主」だと名乗り出たのは全部で4人。
ユンタンザミュージアムがそれぞれに聞き取り調査を行いある答えを導きました。

「吉子さんとの証言や戦時中の状況とかこちらでいろいろ調べさせて頂いた結果、やはり比嘉秀子さんが持ち主であろうということで、判断させていただきたいと思います」
比嘉秀子さんの長男・優さん「報道が出た時には、おふくろの持ち物とは全然思ってなかったです」
三男・浩さん「もしかしたらこのまま真実であってほしいと、気持ちはありました。はっきりわかってきたんで、僕はとても今喜んでいます」
報道にも出ていない“避難先の名前や屋号”“周辺の情報など”が一致。それが、決め手となりました。

比嘉秀子さん
「戦後になっても向こうが預かって、読谷の人だからと言って、返してあるでしょ、だからこれをとっても向こうの方に心からありがとうって」Qこの着物は今後どうしますか?「こんな時代もあったよと、今からの子どもたちひ孫たちに伝えたいから、貰いません」
秀子さんが選んだのは、ユンタンザミュージアムに寄贈することでした。
数奇な運命をたどった着物。

【記者MEMO】
この後、秀子さんら家族は、国頭村にいる大田吉子さんら家族の元を訪ね、77年ぶりに再会を果たしました。
再開した2人はどんな言葉を交わしたのか、6月23日(木)午後4時50分からのRBC慰霊の日特別番組「ウムイつむぐ~着物が語るやんばるの戦~」をご覧ください。