「あんな地獄はもう、誰にもあじわってもらいたくない」高知県香美市に住む西岡統一さんは、今は青々と木がしげる山を見つめながら、声を絞り出しました。大雨によって山が崩れ、消防団など60人が犠牲になった土砂災害(繁藤災害)から51年。当時の雨量などのデータを分析し、被害が拡大した背景と教訓を考えます。
繁藤災害。1972年7月5日、前日からの集中豪雨で、高知県香美市の、繁藤駅近くの追廻山が、幅約170m、高さ約80mに渡って崩れ、10万立方メートルもの土砂が、住宅や列車、人々をのみこみました。

「あの繁藤災害では、3回も4回も死んでいておかしくない…」
命の危機が何度もあったと当時を振り返るのは、83歳の西岡統一さん。32歳だった当時、地区で組織した私設消防団に所属していました。
――東杜和 気象予報士「51年前の7月5日、何が起きたのか改めて聞かせてください」
「午前4時から5時、5時から6時、6時から7時の雨量が、大体1時間に100ミリの猛烈な雨でした。(雨に)圧迫感がありました。『どうなるろう』というような…」
断続的に降る、猛烈な雨。水分を含んだ山は、限界をむかえます。