“自分は大谷翔平にはなれないが、大谷翔平も俺にはなれない”
そんな気概で「自らの開幕」に向かう選手も日本中にいるだろう。そして愛媛では今、「正捕手争い」が熱い。

去年のドラフト会議で、愛媛マンダリンパイレーツのキャッチャー・上甲凌大が
横浜DeNAから育成1位で指名を受けた瞬間から、次は誰が扇の要を務めるのか-。
祝福ムードの影で静かに始まった正捕手争いには、今4人が名乗りを上げている。その一人が「矢野泰二郎」。チーム最年少のキャッチャーで、地元愛媛の強豪、済美高校出身の3年目だ。

この日、矢野はブルペンに呼ばれた。すると18.44メートル向こうの小高い丘の上から声が掛かる。
「お前、いくつ?」
「20です」
「ハタチ?俺、41」
声を掛けたのは、チーム最年長の正田樹投手兼コーチ。群馬県に初めて“深紅の大優勝旗”を持ち帰った桐生第一のエースは、日本ハムやヤクルト、台湾プロ野球から独立リーグまであらゆる舞台を経験し、プロ23年目の今年も「現役」だ。
「いいか、今から30分間は『タメ』だからね」
「はい」
矢野はマスクを被り、ホームプレートを視界下に捉え、いつも通りに腰を下ろし、元気よく「発声」した。
「さあ行こう!」
180センチ85キロの体を小さくまとめ、左ひじは柔らかくゆとりを持たせ、最後にピッと手首を起こし、ミットの奥を正田に向けた。

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矢野泰二郎は高校3年の時が2020年にあたる。新型コロナに夢を奪われた世代だ。
夏の甲子園は中止になり愛媛の独自大会「夏季野球大会」の準決勝で高校野球に幕を下ろした。
「いつか、いい思い出になるのかな」と矢野は振り返るが、それも今、次なる目標に向かっているから。同期も8人ほどが野球を続けているそうだが、矢野には同い年で目標の選手がいるという。
「内山という選手がいるんですけど、ヤクルトに。彼には本当に刺激をもらっているので」
去年の日本シリーズ「ヤクルトvsオリックス」の第2戦、9回に代打で起死回生の同点3ランを放ったあの「内山壮真」だ。20歳3か月での日本シリーズ初打席での一発は、村上宗隆の球団最年少記録を塗り替えた。
「同い年で1軍の試合に出て活躍しているのは凄いと思うし。自分も反骨心で頑張ろうと、負けられないですね」
その内山を矢野が初めて意識したのは2018年夏の甲子園の2回戦で、済美が星稜と対戦した時にさかのぼる。この時、矢野は済美の1年生部員でアルプススタンドにいたが、相手の3番ショートが同じ1年生ということで注目していたという。
ただその記憶も吹き飛ぶ出来事がこの日は起きる。8回ウラ、1対7と6点差を追う済美は一挙「8点」の猛攻で大逆転するが、9回表に2点を返され9対9の同点で延長戦に突入。しかしその白熱の展開にピリオドを打ったのは、矢野の兄、3年生の矢野功一郎だった。
タイブレークに突入した延長13回ウラ、9対11と2点差を追う済美は、規定の「ノーアウト1、2塁」から先頭の9番・政吉がセーフティバントを決めてノーアウト満塁。ここで1番・矢野功一郎が甘いスライダーをすくいあげると、打球はライトポール直撃した。
「大会史上初の逆転サヨナラ満塁ホームラン」
第100回夏の甲子園の眩しいほどの記憶は、野球の醍醐味とともに「弟」泰二郎の夢をも大きく膨らませていった。
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「ナイスボール!」
矢野が構えたミットはほとんど動かず、その口を閉じただけだ。
「おおっ、ナイスボール!」
次も、またその次も、的の中心を射抜く弓矢のように正田のボールは矢野のミットを叩いていく。

「オッケー!ヨッシャ、グッドボール!」
見ているこちらも気持ちがいい。が、20球を過ぎた頃だった。正田はひとつ間を取り、矢野に声をかけた。
「今までの20球の中で、どれが一番良かったかな?」
一瞬、空気が止まる。
「悪かったら言ってくれよ」
マスク越しで矢野の表情は見えない。
遠慮はいらないらしい。とは言え年齢も倍以上だし、なにより相手は「正田樹」だ。無理もないだろう。しかし躊躇する矢野に正田は一言。
「俺の力の入れ具合と、キャッチャーの印象をすり合わせたいから」

そういうことか…。腕の振りの微妙な強弱や、リリースの瞬間のわずかな力加減でどんなボールが行き、バッターにはどう見えるかを客観的に掴んでおきたいらしい。
「ここから1球ずつ、5点満点で点数を言ってくれ」
ブルペンでのピッチングと実戦マウンドでのピッチング。その関係性をどう把握し構築していくかはピッチャーにとって永遠のテーマだ。だからこそ「キャッチャー」の役割は大きく、かける言葉は精神的にも大きな拠り所になる。「女房役」と呼ばれる所以だ。
「うーん、4点です」
矢野が判定を始めた。ブルペンがにわかに活気づいてくる。
「少しカットしてます。4点です」
わずか1点だが矢野は5点満点を出さない。出せないのは何かが足りないからだ。今までの「ナイスボール」の言葉の曖昧さに、矢野は自ら気づいていく。
「思ったことをどれだけ伝えられるかが、キャッチャーには大事だぞ」
4点と5点のボールはやはり違うし、その違いをバッテリー間で瞬時に把握し次の1球に繋げていく。それを声に出して訓練できる場所が唯一「ブルペン」というわけだ。
「ナイスボール!5点です」初めて満点が出た。
「キャッチングもいいぞ!」正田も乗ってきた。
松山市郊外の広々としたグラウンドから見える皿ケ峰など、遠く石鎚山系につながる山々の頂き付近は、この時期はまだ白い。
「いい天気だな。絶好の野球日和だ」
「そうですね」
この日、2人の間をボールは150回往復し、21歳の年の差も、この1時間は『タメ』になった。

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ヘルメットを取り、プロテクターとレガースを外した矢野。汗をぬぐいながら語り始めた。
「兄はこの春から社会人として働き始めます」
そう教えてくれた矢野の言葉には、寂しさが滲むと同時に決意も感じられる。
「目標はNPBに行くことですね。NPBに行くことしか考えていません」
1年目はランナーとのクロスプレーで左肩を負傷し、手術とリハビリに明け暮れた矢野。2年目に戦列復帰し出場機会を求めてファーストにも挑戦したが、本職のキャッチャーへの思いは募る一方で、3年目の今年、満を持して正捕手争いに名乗りを上げた。
「レギュラーを獲らないとプロにも行けないので、まずレギュラーをしっかりと獲ってキャッチャーに定着したいです。技術面などもっとレベルアップしないと、まだまだ劣っている面が多いので上甲さんにも教わりながら、去年の上甲さんを抜けるようにやっていきたいです」
冬場の自主トレから追い込み続けてきた体の状態は、去年の同時期と比べて「倍は違いますね」とキッパリ。納得のいく練習が出来ている充実感に表情は明るい。
「上甲さんにはたまに連絡をとらせてもらって色々聞いたりするんですけど、上甲さんも忙しいので(笑)」
強肩強打を評価されNPB入りを果たした同郷の先輩の姿に、あすの自分を重ねる矢野泰二郎20歳。
「打てるキャッチャー」に成長を遂げ、秋の吉報を掴み取る覚悟だ。