およそ50年前、中国を睨んで築かれた砲陣地。空砲の先には、中国福建省の都市、泉州市が見えます。なぜ、こうした施設が置かれたのでしょうか。

太平洋戦争終結後の中国大陸では、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党による内戦、「国共内戦」が続いていました。
共産党の猛攻を受け、大陸を追われた国民党は、台湾へ逃れる際、金門島に踏みとどまって島を軍事要塞化。島の住民に対し、言論や行動を規制する「戒厳令」を敷きました。

アメリカは国民党を支持し、ソ連は共産党を支持。大国の介入によって冷戦構造は深まり、金門島は米ソ対立の最前線へと押し出されていきます。当時、沖縄から金門島へ武器が運ばれるなど、沖縄のアメリカ軍基地を起点とした軍事支援もありました。
通訳の女性
「補給物、例えば軍事的なもの、必要なものを外から中まで運んできます。手前の方でおろした後に、また出ていくことになっている」
島の南西部に築かれたこのトンネルは、船を乗り入れて、台湾側から軍事物資を補給するための施設です。こちらもかつての軍事施設。硬い花崗岩をくりぬいたトンネルの中で、戦車を保管していました。1年を通じて一定の室温が保てることを活かし、現在は高粱酒の貯蔵庫として使われています。

ツアーの参加者
「泡盛より甘みがあって、香りもアロマみたいな感じがします」
「ゆっくりいただかないと、なんかこう、鼻の奥に爽やかな香りが抜けていくような、全体に蒸発していくような感じですね。後味がとっても爽やかです」
トウモロコシの仲間、コーリャンなどを原料とする高粱酒。島最大の産業で、コロナ以前は、主に中国に出荷されていたと言います。
島に残る軍事施設は、およそ30年前に戒厳令が解除されて以降、その多くが観光地として整備されています。
伊良波記者
「こちら金門島と中国とを結ぶフェリーターミナルです。およそ20年前から、直接船を使って往来できるようになり、隣国中国との関係は深まっています」

固く閉ざされていた中国との交流も、2001年から限定的に開放され、直接往来できるようになりました。コロナ禍直前の入域観光客は、延べ100万人。その半分が中国からの旅行者で、島民もこれを歓迎し、繁華街では中国と台湾、2つの旗を掲げていました。
戒厳令下の金門島に渡り、歴史や文化を調査した又吉盛清さん。軍備を緩和し、人的交流を促進することが、地域に安定をもたらすと話します。

沖縄大学 客員教授 又吉盛清さん
「(金門島は)外来政権によって命、生活が奪われていく体験を積み重ねている。今は観光客を誘致して経済が潤ってきている。武力をいかにして排除するかが大きなテーマで中国と台湾、その橋渡しができるはず」
両岸の緊張が緩和され、自由に渡航できるようになった金門島。冷戦期には、対立の最前線にあり、住民が犠牲になったこともありました。

1958年8月の「八二三砲戦」(第2次台湾海峡危機)で、中国軍が金門島に大規模な砲撃を実施。40日あまりにわたり、およそ47万発が打ち込まれ、多くの住民が亡くなりました。形式的なものになりながらも、21年にわたって砲撃は続いたため、金門島では沖縄と同じように、今も多くの砲弾が埋まっています。
戦争の「負の遺産」を用いて、島の観光産業を支える男性がいます。
呉増棟さん。砲撃が始まる前の年に生まれ、砲弾が飛び交う中で育ちました。
呉増棟さん
「1歳から20歳まで砲弾が落ちてくる音をずっと聞いてきた。一緒に大きくなったような、成長してきたようなものですね」
砲弾の破片を叩いてはのばし、繰り返すことおよそ30分。出来上がったのは包丁です。砲弾に使われる鉄鋼を材料とすることで、通常の鉄よりも固く、強度が増すといいます。

呉増棟さん
「今はこの砲弾を利用して、武器をつくるのではなく、世界平和のために使うことに意義がある」
沖縄戦後、アメリカ軍から支給された食料缶で三線をつくるなど、たくましく生きた沖縄の人々と通じるものがあります。
呉増棟さん
「昔から私たちは中華民族で、また生活も風俗習慣も一緒だそうですから、私たちはお互いに連携して、平和的に発展をして、お互いに友好的に過ごすことが台湾にとって1番いいことだと思う」
軍備が緩和された金門島では、中国と台湾の狭間で、平和と安定を求める人々の姿がありました。