事実関係は不正確なところも
<山形新聞 1953年12月17日>
幕田氏は長男、昭和十一年山中から海兵入学、十六年十二月八日の真珠湾攻撃、空母飛鳳に乗り組み、サンゴ海々戦で負傷、全快後青島防備隊を経て二十年一月石垣島の聖桜特攻隊長になった
《戦犯に問われる理由になったのは四月のある日、同島警備隊本部で猛烈に来襲してきた米グラマン戦闘機一機を撃墜した。米搭乗員三名を捕虜にしたが本部では「食料難」を理由に処刑を決定、夜十一時ころ本部から幕田大尉に三十里はなれていた特攻基地にいたので何もしらず出頭したところ『三名を斬首せよ』といわれてうち一人だけ斬ったこと》
終戦―二十一年五月復員して家に休むまもなく宗谷海峡の掃海作業にあたり、十一月北海道の魚粉会社に就職、一等航海士の免許もとって再スタートしようとした矢先、二十二年三月ころ北海道からひそかにMPに拘置されていった。横浜軍事裁判で当時の司令井上乙彦大佐、副司令井上勝太郎大尉はどうしたことか命令系統を証言しなかったので幕田氏は「進んで斬った」と判決をつけ、両司令および部下六人ともに十五年四月七日深夜十一時すぎ十三段の段上に消えていった。
山形新聞の記事は抒情的に書かれていて、事実関係は大まかだ。トメの年齢も違うし、事件の時間もずれている。処刑されたのは全部で7人、処刑時間は4月7日の午前0時半すぎだ。また、毎日新聞山形版と同様、井上大佐から幕田が「3名を斬首せよ」と命令したことになっている。この記事でも司令と副長の二人が命令系統を証言しなかったことから幕田大尉が死刑になったという書きぶりなので、トメの認識がそうであったと思われる。石垣島事件は、終戦後に遺体を掘り起こして燃やし、海へ流すという隠ぺい工作後、GHQへの密告によって事件が発覚した。しかも殺害された米兵3人のうちの一人は、杭にしばられた上、大勢から銃剣で刺されるという残忍な殺害方法だったことから、米軍の怒りは強く、最初の判決では41人に死刑が宣告された。ほかの横浜裁判の事件では、命令された実行役は死刑にはなっていないので、遺族の中では理不尽な結果となった理由として「司令が命令したことを証言しなかった」が定説化したのではないかと思う。
















