東京都豊島区にあったスガモプリズンの最後の死刑執行は1950年4月7日。沖縄の石垣島で終戦の年に3人の米軍機搭乗員を殺害したとして、7人が絞首刑になった。そのうちの一人、幕田稔大尉は、石垣島に置かれた海軍の特攻・震洋隊の隊長で、山形の出身だった。幕田の生家に残された手紙の束。死刑が執行された前月、幕田は週ごとに家族に宛て3通の手紙を出していた。母へ、10歳ほど離れた妹、弟へ。小さな丸い文字で綴られた手紙に書かれていたのはー。

5か月間、死刑なく

幕田稔大尉の生家に残された写真

スガモプリズンの死刑執行は、東海軍の岡田資中将が1949年9月17日に執行されたあと、2か月後の11月に1人が執行されてからは、しばらく止まっていた。死刑が執行されるのは金曜日で、その前日の木曜日に死刑囚の部屋に迎えがくることから、毎週、木曜の夜になると死刑囚たちは息をひそめて時が過ぎるのを待ち、また来週まで命が延びたと胸をなでおろした。しかし、数カ月も死刑がない状態が続くと、もう米軍は執行しないのではないかという楽観的な空気が死刑囚の棟にはあったという。

死刑のない穏やかな冬が過ぎて、迎えた1950年春。3月27日の消印が打たれた手紙が3通、山形市の幕田家に届いた。差出人は「巣鴨拘置所幕田稔」。1通は3月7日に書いたもので、母トメ宛てだ。

幕田稔の生家(2025年9月撮影)

<幕田稔大尉から母へ手紙 1950年3月7日>
前略 皆様には如何ですか。小生変わりありませんから御心配なく。このごろ、日ましに暖くなり、日中は全く春の気候と云っても、考えてみれば春ですが。蒲団一枚掛けただけでも暑くて寝れない時もあるーもっとも暖房装置が動いているからですがー。身体の調子は暖かくなると共に、ますますよくない。元気を出して本など読み耽っております。餅田君の家族らしい人から雑誌を送って来たので礼を出しておきました。
三月七日 稔拝 母上様