天皇皇后両陛下が今年訪れたのは戦後、モンゴルに抑留された日本人の慰霊碑です。当時何があったのか。知られざる事実に向き合う人がいます。

この夏、北海道から新潟県に一人の男性がやってきました。井手裕彦さん(70)。元大手新聞社の論説委員で長年、日本人抑留問題に取り組むジャーナリストです。

ジャーナリスト 井手裕彦さん
「『シベリア抑留』という言葉の強さ、イメージの陰にモンゴルというのが隠れた」

終戦間近、モンゴルはソ連の要請を受けて日本との戦争に参加。その見返りとして日本人捕虜およそ1万4000人をもらい受けました。

日本人は施設の建設などにあてられ、寒さや飢え、伝染病などでおよそ1700人が命を落としたといいます。

井手さんは5年前、現地で軍医らが記した379人分の死亡記録を発見。当時、日本政府も手にしていないものでした。

ジャーナリスト 井手裕彦さん
「記録に書いてある背景、どういう収容所で病気がどういうふうにまん延していたか、そういうことをつなぎ合わせると、その人自体の生きざまが浮かび上がる。私が持ち帰らないと、この人を見捨てるような気がして」

以来、抑留犠牲者の最後の情報を集め、遺族にその記録を届けています。この日訪ねた小黒良作さん(78)は、祖父から叔父の小黒赳さん(行年22)が戦死したとだけ聞かされていました。

井手さんがまず伝えたのは…

ジャーナリスト 井手裕彦さん
「アムラルトという病院です。(1946年の)4月に入院して12月に亡くなられる。死因が書いてある、肺浸潤と腸結核」

抑留者用の病院で闘病の末、死亡という事実です。

ジャーナリスト 井手裕彦さん
「(満州国に)承徳というのが、ここに小黒赳さんがいらっしゃった。武装解除して、武器を渡して捕虜になった」

所属部隊から足跡を割り出し、収容所の名前から建築用の木材の伐採をしていたことも推測しました。

小黒良作さん(78)
「長い距離を移動したり、8か月も入院したり、その思いはどういうふうに、もう話もできない、日本に帰りたかっただろうし」

良作さんの孫 小黒愛心くん(11)
「赳さんはつらかったし大変だった、赳さんじゃなくても、他の戦争を経験した人。全員が大変だったということが分かった」

戦後80年、遺族を探し出すのは簡単ではありません。それでも、

ジャーナリスト 井手裕彦さん
「死亡記録ではあるけれど、その人の生きた証。それをお伝えしたい」

知られざるモンゴル抑留の実態を伝えるため、井手さんは全国へと足を運びます。