山城さんが、こうした証言を書き起こしていく中で向き合ったものがもう一つあります。

▼山城正夫さん
「この山が石川岳。その後ろに、ちょっとあの高さは同じぐらいで見えないんですけど、屋嘉岳があるんですよ。 僕の親父は、その屋嘉岳で亡くなったと」

山城さんの父、長榮さんは防衛隊として戦場に駆り出され、1945年5月11日に戦死。

写真も残っておらず、当時1歳だった山城さんは父親の顔を知りません。

しかし、沖縄戦の証言を集め、記録していく作業が少しずつ父親の輪郭を確かなものにしていきました。

▼山城正夫さん
「たばこも吸わない、酒も飲まないと。もうくそ真面目っていう。こういう感じだったんです。ただ、気性は荒かったと。少しは僕も血を引いて部分があるのかなと思って」

執筆の合間には自宅のベランダから、顔を知らない父親の姿を思い浮かべます。

▼山城正夫さん
「おはようと言ったりね。まあ、おかしいなあの、僕…元気で、頑張ってるよとかね、そういう感じの。まあ、独り言を言って、親父に聞かすような感じで」

山城さんにとっての慰霊、623とは…

▼山城正夫さん
「無謀な戦争によって、たった一つしかない命を失った。こういう人たちのことを、やはり文字化して、後世でも生かさんといけないんじゃないかと。1年365日が慰霊の日と言いますか、死者を哀悼する日。こういう考えが無意識のうちに、心のどこかに流れていて、こうした記録する仕事をしたときに、途中でギブアップしないで続けられた要因の1つじゃないかなと思うんですけどね」