岡山県瀬戸内市長島に、国のハンセン病療養所、長島愛生園はあります。

園長を務める医師の山本典良さんが、8月31日、岡山市北区表町の「詩人 永瀬清子とハンセン病文学の読書室」で講演しました。

山本園長が語った「ハンセン病に対する差別・偏見、コロナ禍を経て、いま伝えたいメッセージ」とは。全3回シリーズの第2回です。

「傷が増えるとどんどん手足の指がなくなる」長島愛生園の山本典良園長が語る「ハンセン病はなぜ忌み嫌われたのか」(第1回/全3回)から続く

患者や家族に注がれる「世間の目」

(山本典良園長)
「 長島愛生園入所者自治会長の中尾伸治さんの話をします。中尾さんは、3人家族でした。お父さんは早くに亡くなられて、お母さんとお兄さんと中尾さん。

中尾さんは、昭和9年生まれで14歳の時に愛生園に入所されました。愛生園に、ハンセン病で入所されたということですね。入所の直後に、園の職員から『偽名にしたらどうか、偽名にしなさい』という話を聞いたそうです。

それをお兄さんに相談したのです。お兄さんに『偽名にしようか』と言った時に、お兄さんは『水臭いこと言うな。2人きりの兄弟じゃないか。変えなくていい』ということを言われたのですね。

ところが、それからお兄さんが結婚して娘さんができた頃に、奈良県に帰省した。いつもは実家に行くのですけど、その時は、お兄さんが奈良駅で待っていて『今日は実家には帰らない。ホテルに泊まる』と言ってホテルに泊まったそうです。

中尾さんの話によると、お兄さんは、普段はあんまりお酒を飲まれないみたいですが、その時はしこたま飲んで、酔った勢いで『娘ができた。娘が大きくなるまで帰ってきてほしくない』と言った。

中尾さんはそう言われて『大きくなるまで』といわれたけれど、一生帰らなかった。中尾さんは確かに辛かった。じゃあ、お兄さんはどんな気持ちで言ったのかなと考えて欲しいのです。

お兄さんは、自分の弟がハンセン病であるということは『自分は何とかする。名前を変えるな』と言ったのですね。

ところが、自分に娘ができた時に、娘さんにとって中尾さんは叔父さんになります。叔父さんがハンセン病だという、いわゆるそのハンディキャップというか、世間が偏見をもった目で見るかもしれないという恐れ、リスクを避けたかったのです。

お兄さんにとっては、守るべき人ができた。その時にハンセン病である中尾さんを消し去る。このことを誰が責めることができますか。お兄さんは、どのようなリスクを避けたかったかというと、『世間の目』なんですよね。少しでも、世間の目を和らげたかったということですね。

物事というのは、いろんな面を見ないといけないなと思った時に、私が『らい予防法』廃止についてあんまり知らないこともあって、全体を見る、客観的に見ることができるのかなとも思っています」