シリーズでお伝えしている「戦後80年つなぐ宮崎の記憶」。
今回は、戦争遺構から平和について考えます。宮崎県国富町に今も残るのが太平洋戦争中に整備された陸軍の飛行訓練場の跡地です。
その歴史をたどり、戦争の記憶を伝え続ける男性を取材しました。

畑にぽつんとたたずむ「トーチカ」

「ものすごく広い、北海道みたいじゃろう。まぁ、ちょっと見てあちこちで話をしようか」

国富町に住む間賀田 晴行 さん、87歳。
のどかな田園風景が広がる六野原(むつのばる)台地に今も残る戦争遺構を案内してくれました。

(間賀田さん)「ここ。これ入る?」(記者)「草が生い茂っていますね」

畑にぽつんとたたずむのは「トーチカ」と呼ばれる小型の陣地。

太平洋戦争末期、アメリカ軍の上陸に備えて日本各地に作られたもので、六野原台地には4つのトーチカが残されています。

地面を掘り下げて数人の兵士が入れるように作られているトーチカ。
小さなのぞき穴「銃眼」は外の様子を監視するためのものですが、戦況が悪化していた当時、強固な作りにできなかったことが推測されます。

(間賀田 晴行 さん)
「なんせこれ(トーチカ)を見たら分かるが、コンクリートが(十分に)ないから、粗末な、ボロッといきそうな。もう材料がないというか、コンクリートより石のほうが多いかも知れない。終戦前の最後だから物がない」