日航機墜落事故から40年。今なお、広く知られていない新事実が存在します。墜落直後、その機体を発見した自衛隊のパイロットが御巣鷹の尾根に広がる光景を初めて証言しました。新たな映像と共にお伝えします。

きょう、群馬県の御巣鷹の尾根には慰霊登山を行う日航機墜落事故の遺族の姿がありました。慰霊碑の前では遺族らが「空の安全」を願い、風船を飛ばしました。

弟(21)を亡くした 小林由美子さん 
「8月12日だけは我慢していた涙が流れちゃう」

兄(24)を亡くした 竹永利明さん(60)
「生きていたら(兄は)4歳上なので、孫もできてみんな元気に生活してますよと」

1985年8月12日、日本航空123便は御巣鷹の尾根に墜落。520人が犠牲となりました。

今回、私たちは墜落現場に入った自衛隊の活動を記録した映像を新たに入手。そこには緊迫した様子が記録されていました。

山肌から燻る煙に、草木の中には日本航空のシンボル「鶴丸」。JNNが新たに入手した日航機墜落事故現場での陸上自衛隊第一空挺団の活動記録の映像です。第一空挺団が墜落現場に入ったのは、墜落からおよそ14時間後の翌朝でした。映像には生存者の捜索のため、斜面に横たわる機体の残骸をかき分ける隊員の姿などが記録されていました。

この捜索に関して、新たな証言が。日航機が墜落したとされる午後6時56分からまもなく、茨城県の百里基地から2機の戦闘機が捜索に向かいました。別々の戦闘機に搭乗していた航空自衛隊の元パイロット・渡辺修三さんと南尚志さん。離陸当初、日航機が墜落したことは知らず、情報が錯綜していたといいます。

渡辺修三さん(当時二等空尉)
「最初のインフォメーションは『飛行機、米軍か何かが落ちた』」

南尚志さん(当時三等空尉)
「『民間機が行方不明になった』みたいな。日航のジャンボ機なんてすごい大きな飛行機が落ちたという認識は全然ありませんでした」

午後7時15分ごろ、日航機の信号が途絶えた地点に到着。あたりは暗く薄雲で覆われていて、上空およそ9000メートルからの捜索は困難を極めました。

南尚志さん(当時三等空尉)
「(高度を下げていくと)『なんかオレンジの光が見える』って。もう少し下げていったらぱっと雲が切れて、オレンジの明かりがドンと急に、ブワッと燃えているのが見えた」

別の自衛隊機から撮影された写真では、暗闇の中の炎が確認できます。

午後7時20分ごろ、渡辺さんたちは炎上する日航機を発見。

渡辺修三さん(当時二等空尉)
「炎の色と燃えている状況。今でも脳裏にはしっかりと刻まれている」

南尚志さん(当時三等空尉)
「墜落して火災を起こしたというのは瞬間的に理解して本当に絶句でした」

新映像より(撮影:第一空挺団)
「左、第三中隊、ローラーで整列をして(捜索)」

事故から一夜が明けた午前8時半ごろ、陸上自衛隊第一空挺団は生存者の捜索、現場の地形の把握などの任務を受け、御巣鷹の尾根に駆け付けました。小隊長だった岡部俊哉さんは、あまりの惨状に虚しさを抱いたといいます。

岡部俊哉さん(当時二等陸尉)
「人間がこれだけボロボロの状態になってるのに(お土産の)ぬいぐるみが綺麗な状態で残ってる。人間ってこんなに脆いものか」

部分遺体が散乱し「生存者がいるとは思えない」。そう感じていた岡部さんの元に、午前10時45分ごろ、生存者「発見」の知らせが届きます。

岡部俊哉さん(当時二等陸尉)
「この地獄から生還されたこの奇跡というのは、驚きとともに生きていてくれて本当によかったと思った」

生存者の救助など、2日間にわたる任務を終えた岡部さん。しかしその後、不眠や遺体の様子がフラッシュバックするなど、急性ストレス障害の症状が現れます。症状は1か月ほどで治まったといいますが、体の異変や当時の体験を話せるようになるまで、20年以上の時間が必要でした。

あの日から40年。

岡部俊哉さん(当時二等陸尉)
「事故を風化させないというのが一つの大きな意義がある。それは結局、航空安全だとか、そういうふうに繋がっていく」