64~65人は即死の状態 うめき声すら聞こえず静まり返った校舎
ガラスの破片が鎖骨の下側に刺さって、動脈が切れていました。
(長尾昭雄さん)
「私はもう死ぬのかなと思いました。そして両親のことや兄弟のことを思いました。この南の山に嶽山【画像⑤】がありますが、ずうっと見て育ちましたからきれいな山です。嶽山が目に浮かんでもう最期やなと思いました。70人ぐらい一緒に同僚や先輩がいたんです。助かったのは4~5人なんです。64~65人は即死の状態。70人くらい一緒にいましたから、助けてとか痛いとかうめき声が普通は聞こえるじゃないですか。即死の状態だったから、私はその声を一切聞いてないんです。校舎の中は静まり返ったような状況でありました」


長尾さんは先輩に助けてもらい、トラックで宇品港、現在の広島港に向かいました。その途中、想像を絶する光景を目にします。
(長尾昭雄さん)
「元安川の堤防に何百人とも数えきれない亡くなった人が並んで死んでおりました。みんなお相撲さんのように太ってやけどして衣類が焼けていますから裸なんです。川の堤防に何百という数えきれない人が並んで亡くなっている姿を車の上から見ました。これは大変なことだと思いました」

頭痛やめまいなどの体調不良や、被爆者に多いとされる副甲状腺機能亢進症に悩まされてきました。差別を恐れ、被爆者であることは長く口を閉ざしてきました。しかし、今は心から平和を願い、命の尊さを語り継いでいます。

(長尾昭雄さん)
「ひとつしかない命が一番大切だと思います。平和でなかったら大切な命を守ることができないと思っております。戦争の悲惨さ原爆の怖さ、恐ろしさそれをひとりでも多くの人にお話して、次の若い人に語り継いでいただきたい」
