長崎原爆の日を前に先週からシリーズでお伝えしている「被爆80年ノーモア」今回は被爆体験の継承です。長崎市に住む小峯英裕さんは、去年亡くなった被爆者の父・秀孝さんの遺志を継ぎ、語り部としての一歩を踏み出しました。
被爆者・小峯秀孝さんの証言「私の人生は本当に4歳8か月から死ぬまで翻弄される人生であって、こんな人生を後世の人に絶対、味わってもらいたくない」
去年11月に食道がんのため、83歳で亡くなった被爆者の小峯秀孝さん。

今年5月、親交があった被爆者らが集まって小峯さんを偲ぶ会が開かれました。
小峯さんの長男、英裕さん50歳。亡き父を前にある決意を述べました。

小峯英裕さん「これから先ですね、2世として語り部の方をしっかりやっていき、引き継いでいこうかなと思いますので、これからもすみませんがよろしくお願いします」
■被爆者・小峯秀孝さん

小峯さんの父、秀孝さんは4歳8か月の時に爆心地から1.5キロの現在の錦町で被爆。腹部や両足に大やけどを負いました。

小峯秀孝さん「熱いというよりもあれ、火の中に入ってるみたいな熱さ、想像できないくらいの。特にあの、右足足首から下は到底人間の足とは思えないようになってしまったんです」

小峯さんは秋から語り部を始めるため、元となる原稿を作成していました。

小峯英裕さん「ちょっと山場のところなんで、いろいろ考えているんですけど、何回も書き直していますね」

■NBCに残る父・秀孝さんの被爆証言 息子は…

秀孝さんは子どもの頃、右足のやけどの後遺症で真っすぐ歩くことができず、差別を受け続けていました。

被爆者・小峯秀孝さんの証言「小学校3年の時にある男の先生が私が歩くのを見ましてね、小峯おまえどうして真っすぐ歩けんとか、まるでガネのごたるやっか、ガネってカニのことですけどね、私の歩く真似をしたんです。周囲にいた学生たちがそれを見て一斉に笑ったんですけどなんでか知らないけど私も圧倒されて笑ったんです。笑いながら涙が床にポトポトポトポト落ちて、あんな悔しい思いを本当にたぶん一生忘れないと思うんですよね。先生も学生といっしょになっていじめるんかほんとに悔しかったですよね」

小峯英裕さん「どこで報われたのかのかなと思いますね。どこで報われたかなーって、思いますね。うん、まあ、自分たちが生まれた時なのか」
■離婚後に小学生と2歳の子どもの3人を育てた父・秀孝さん
理容師だった父・秀孝さんは25歳の時に結婚して3人の子どもに恵まれますが、英裕さんが2歳の時に、両親は離婚します。
被爆者・小峯秀孝さん証言「妻が別れたいと言い出したんです気持ちわかるんです。そうだよなーおまえにもちょっと化膿しても原爆病じゃなかろうか、鼻血が出ても原爆病じゃなかろうか、夫婦でびくびくびくびくして妻もものすごくつらかったんだろうと思うんですよね。小学校5年生と3年生と2歳半の子どもを抱えて生活するんですけども、これはまさに地獄ですよね、父親が子ども3人育てるというのは」

小峯英裕さん「父の乳首は右側か左側かどちらかだけ大きいんですよ。なぜかというと自分が2歳のころに寝る時には必ず、乳首をさわってたみたいで父の。父でもあり、母でもある人ですね」

小峯英裕さんが小学4年生の夏休みに書いた作文です。父・秀孝さんから初めて被爆体験を聞きとり、原稿用紙4枚にびっしりと書きました。
■被爆者の恩師との再会
「こんにちは」「元気やったね?(元気です)」

被爆者の山川剛さん(88歳)。小峯さんの小学4年生の時の担任で、夏休みの自由研究として作文を書くように勧めました。

山川剛さん「ぼくんがたにね、仙ニおじちゃんの来るとばいというたっさ、仙ニおじちゃんって言ったとき、あの被爆者のね、山口仙ニさんしかね、頭になかったけん」

山川剛さん「こい父ちゃん床屋さんやったけん、あの山口さんのあの顔でね、安心して剃刀ば当ててくれるというのはね、おそらく被爆者やろうとぼくは思うたわけさ、英裕くんにはね『夏休み中かかってね、父ちゃんの話ば聞かんね』って言うたっさ」
■詳細な記録を残しそれを原点に伝えていく「語り部」

50歳になった教え子が書いた原稿を、自身も語り部を続ける山川先生が40年ぶりに目を通します。

山川さん「記録として残すという意味で、これ以上詳しくは書けんというぐらいのところまで書いとくというのは絶対必要だと思うんですよね。これを原点としてこっから話すときにどれを選び出して話すかったいねこれがとにかく一番の元やけんでさ、いくら詳しくあっても詳しすぎるということはなかごとねしとった方がいい(ですね)うん。おいも安心して遠い旅に出れる」

小峯英裕さん「まだまだ早かばい、先生100まで生きてもらわんば」
山川剛さん「がんばらんばぞ」
小峯英裕さん「はい、がんばります」

晩年まで語り部として活動した被爆者の父・秀孝さん。差別と離婚を乗り越え仕事と子育て、平和を訴えた人生でした。
被爆者・小峰秀孝さん「仕事が終わって一人でこうして上がってきて(飲む)もうほんとこの一杯はなんというんじゃろな、生き返るというのかな。いま幸せよ、子ども大きくしてしまってありきたりの言い方やけどね」

小峯英裕さん「父がしてた語り部をそのまま自分がやるだけということですね、父に伝えるとしたらですね。一日でも早く核兵器がなくなって、父みたいな人間をこれから先、絶対に増やしちゃいけない、もう父たちだけで十分だとおもいますね、被爆者というのはですね」

被爆2世の小峯英裕さん50歳。被爆者の父の思いを胸に核廃絶にむけて語り部を始めます。