約70年前の6月1日、郷土館としてオープンした広島城天守。原子爆弾により倒壊した“城の象徴”は戦後、鉄筋コンクリートで再建され、現在の姿になりました。それからおよそ70年。広島の発展を見守ってきた天守は、建物の耐震性の不足などを理由に閉館することが決まっています。
今回はRCCに残る映像とともに、広島の復興の一端を担ってきた広島城の歴史を振り返ります。
「広島、全滅です」原爆被害の第一報は、広島城跡から報じられた

江戸時代から残り、当時国宝にも指定されていた天守は、1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍の原子爆弾投下により、倒壊しました。旧城内に建ち並んでいた軍事施設もほとんどが倒壊し、約1万人の命が奪われました。
「広島が全滅しています」。原爆投下の“第一報”は、広島城本丸跡にあった中国軍管区司令部の防空作戦室から、学徒動員の女学生によって伝えられました。一時的に「模擬天守」が建てられたことがあったものの、およそ10年もの間、広島城の姿は「天主台」の石垣と堀だけになっていました。
再び”城の象徴”が現れたのは、1958年(昭和33年)のことです。
復興を伝えるため開催された「広島復興博覧会」を機に、広島城天守は鉄筋5階建ての建物として復元されました。映像には、天守内のコンクリートの階段や内装も映っています。

期間中88万人もの人が詰めかけたといい、広島城の管理を担当していた人は「広島市に住んでいる人に、後でも見ることができると断るほど(大盛況)だった」と後のインタビューで語っています。