渡辺千恵子さんは被爆当時16歳
爆心地から2,5キロの三菱電機製作所で被爆

倒壊した工場の下敷きとなった渡辺さんは脊髄を骨折し2度と歩けない体になりました。渡辺さんは数日後、ようやく自宅に運ばれましたがそこでは地獄の苦しみが待ち向けていました。

1956年(昭和31年)長崎で開かれた「第2回原水爆禁止世界大会」をきっかけに渡辺さんの生き方が変わりました。第2回原水禁大会で初めて被爆体験を語り、多くの被爆者と出会い、不安や悩みを語り合う中で、核兵器廃絶への想いを強めていきました。

その後、被爆した女性らと「長崎原爆乙女の会」を結成
国内外で被爆の実相を訴え続けました。
1993年3月心不全のため亡くなる 享年64
(1990年撮影)