吉田勝二さんは被爆当時13歳。
県立長崎工業学校造船科の2年生でした。
あの日、吉田さんは空襲警報が解除されたあと、同級生と一緒に避難先から上野町の学校に戻る途中、爆心地からおよそ800メートルの油木町で被爆しました。
数千度の熱線に焼かれ顔の右半分は皮膚がなくなり10数回に及ぶ移植手術の後も消えることがないケロイドが残りました。そして自分の被爆体験を県内外の子供たちに伝え続けました。
長年、反核・平和を訴えてきた吉田勝二さん。
肺がんを患い闘病生活を続けてきましたが2010年4月長崎市内の病院で家族に見守られながら、78歳で生涯を閉じました。
(1992年撮影)
注目の記事
初詣にまで物価高の波が… お守りやおみくじの“値上げ”相次ぐ

びわ湖の水位「-71cm」で“道”や“石垣”現れる 漁師たちは大打撃「次世代が漁をしていけるのかが一番問題」県などに改善求める声

「地域の宝」守りたい 部活動の地域移行が活発化も…全国大会32回出場”名門”マーチングバンドも資金調達に苦戦 富山

「私、見えますか?」画面に現れた制服の男…記者が“ニセ警察官”とLINEビデオ通話で直接対決 その結末は…【後編】

忘年会「参加したい」若者4割の裏で…「行きたくない」50代の切実な理由 昭和を知る上司世代の“ハラスメント”恐怖

「風邪薬」をジュースやスポーツドリンクなどで飲んでも大丈夫? 子供にアイスを混ぜた薬をあげてもいいの?【薬剤師に確認してみた】









