沖縄戦から80年が経ちました。沖縄の80歳以上は、人口の7%です。日本全体でも90%が戦後生まれになり、近い将来、戦後世代しかいない沖縄がやってきます。【戦後80年 #あなたの623】は、胸の奥にしまい込んできた辛い記憶。家族のなかで避けてきた戦争の話題。今しか話せない大切なこと。今だから話せる戦争のことを聞いていく、シリーズ企画です。
今回は、沖縄戦の縮図とも言われる伊江島の戦争で、7歳のときに父親と2人の姉を失った男性の話を聞きました。男性は戦後、自らの体験を島の子どもたちに語ってきました。

21日に伊江島で執り行われた平和祈願祭。そこに1人の男性の姿がありました。
▼内間亀吉さん(87)
「内間亀三、ヨシ、ノリ、茂。捕虜になって、収容所まではみんな行って、収容所の中で死んでいる。みんな」
内間亀吉さん87歳。80年前の沖縄戦で父と2人の姉、そして生まれる前の甥を失いました。

本部港からフェリーで30分程の伊江島。1945年4月16日。伊江島に米軍が上陸すると、島にいた女性たちまで根こそぎ動員され、いわゆる「集団自決」や住民虐殺が起こりました。
6日間で約1500人の住民が命を落としたこの戦いは「沖縄戦の縮図」とも言われています。

▼内間亀吉さん(87)
「ここが私たち一族が避難した場所ですね」
当時7歳だった内間さんは、家族と親戚25人で一族の墓に身を隠しました。
「どうせもう死ぬんだから、じゃあ墓に行こうやと。墓に行って死ねば誰の世話にもならん」
ウジがわく水を口にしながら、5日間を過ごしました。
「この上から呼びかけがあったんですよ。『でてこい、でてこい、たまはない。くだものあげる。でてこい』、この繰り返し。今度は1個の物体が墓の入り口から投げ込まれて、ボンっという音とともに白い煙が墓の中に充満して、のどが絞めつけられる。目は開けられない、息はできない」

何とか墓の外に出たものの、毒ガスを吸った父親と2人の姉、9人の親戚が収容所で命を落としました。さらに、生き残った姉のお腹の子も犠牲になりました。
「死というものの怖さ、そういうのはあまり記憶にないですね。それはおそらく自分たちも死ぬ。遅かれ早かれ死ぬんだというのがあったんじゃないかな」

――あの戦争は、どういう出来事でしたか?
▼内間亀吉さん(87)
「忘れようとしても忘れられない記憶ですね。どんなことがあっても戦争はさせてはいかんと思いますね」

内間さんは自身が体験した80年前の出来事を地元の小学生に伝えてきました。
「(子どもたちは)ウクライナの状況はテレビでよく見ますから。ああいうふうになるよ。そこにいるのは住民でしょ?あなたたち子どもと同じでしょ?ああいうふうになるよ。だから戦争は絶対にやっちゃいかんよ」
7歳のときに刻まれた戦争の記憶。故郷の島が、その歴史を繰り返さないことを願っています。
