沖縄戦から80年が経ちました。沖縄の80歳以上は、人口の7%です。日本全体でも90%が戦後生まれになり、近い将来、戦後世代しかいない沖縄がやってきます。【戦後80年 #あなたの623】は、胸の奥にしまい込んできた辛い記憶。家族のなかで避けてきた戦争の話題。今しか話せない大切なこと。今だから話せる戦争のことを聞いていく、シリーズ企画です。
今回は、渡嘉敷島の戦争の記憶を伝えようと、約30年かけて絵本を制作した一人の女性に話を聞きました。

▼新垣光枝さん「1945年3月28日、それはおきました。1年生のエツ子の耳に『テンノウヘイカバンザーイ』、男の人の声がしたかと思うと、あちらこちらでバンバンと爆発が起こり」
先月、渡嘉敷島で行われた平和祈念コンサートで一冊の絵本が朗読されました。朗読しているのは集団自決を生き延びた絵本の主人公、小嶺悦子さんの妹、新垣光枝さんです。光枝さんは、今年1月、この絵本を自費出版しました。

▼新垣光枝さん「こうやって手紙が来たんですよ」
絵本のストーリーは、光枝さんが15年前に悦子さんから託された手紙がもとになっています。戦争当時7歳だった悦子さんの記憶が便せん20枚にもわたって綴られていました。

▼悦子さんからの手紙「私たち家族も輪を作った。意味の分からない私は、死ぬのは嫌だと何度も輪の中から逃げてはまた連れ込まれた」
集団自決の現場での、父・信秀さんと悦子さんのやりとりもありました。島の北山に集まっていた人たちが集団自決に追い込まれるなか、悦子さんたち家族も死のうとしていました。
▼悦子さんからの手紙「父も手りゅう弾を何度も木にたたきつけたが、私たちの手りゅう弾は爆発しなかった。あきらめた父は長男をおぶりながら『さあ逃げるぞー(日本軍の)本部へ行こう』といった。これもはっきり覚えている」

▼新垣光枝さん「(姉が)お父さん怖いよう、死にたくないって言った。2、3回それが繰り返されて(父が)考えを変えたみたい」
悦子さんの必死の訴えにその場から離れる決断をした、父・信秀さん。戦後に生まれた光枝さんに、戦争の記憶を語ることは一度もありませんでした。
▼新垣光枝さん「どういう思いで決断したんだろうと思ったらやっぱり今でも切なくなったりするんですけど…子どもの命を守りたい、でもみんなが死んでいくのに自分が生き残ることはとてもできないことなんだよねというのは父親の中にはあったとおもいます」

渡嘉敷島で長年、幼稚園教諭として働いた光枝さん。島の戦争体験者から話を聞いた子どもたちの絵を用いて、絵本を完成させました。
▼新垣光枝さんの朗読「エツ子が『お父さんこわいよー死にたくないよー』と泣いて必死で生きようとしたのでエツ子の家族は生き残ることができました」

▼元幼稚園教諭「子どもたちにも、あなた方が小さいときに話を聞いて感じたことが絵本になったよということで、また子どもたちが自分の子どもたちに語り継いでいったらいいなと思っています」
戦後80年の今年、この絵本が多くの人の元に届くことを、光枝さんは願っています。
――今年、光枝さんが感じること、思うことは?
▼新垣光枝さん「(戦争体験者の)話も聞いた、絵もかいてもらった、お姉さんから(手紙も)送られてきた、もし私がそのまま死んでしまったら、これはみんななかったものになるんだけれども、絵本にして頑張って、絵本の形にして残せば、どっかで誰かのところにずっと残る。姉が私たちに命をつないだのと同じように、戦後生まれの私たちは次の世代に今度は平和のバトンをつないでいかないといけない」
