「映像の医師は父」と名乗り出て

愛之さんは、1993年に80歳で亡くなりました。被爆からしばらくして、脱毛の症状は出ましたが、その後は、大きな病気を患うことはなかったといいます。
5年前、広島市中区の原爆資料館で、広島赤十字病院を取り上げた企画展に、父・愛之さんがうつった写真が展示されていました。「どこかで見た顔だな」とすぐに父親だと分かりました。
展示されていた写真をもらうことはできないかと、原爆資料館に連絡をとり、自分が息子であることを名乗り出ました。その際、父親のことで知っている限りのことを伝え、自宅で大切に保管していた知之さんの手紙を寄贈しました。
愛之さんがうつる映像や、必死に消息を伝えようとする手紙。こうした“記憶”が繋がれていくことが、大切だと健司さんは話します。
森田健司さん
「記録としてちゃんと残してもらうことが大事。そして、それを80年、90年、100年と繰り返し伝えていかないといけない」
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※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介した広島赤十字病院など、被爆2か月後のフィルムに写る人や場所などに心当たりのある方は「戦後80年 #きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
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