「出来ることは消毒とガーゼ交換」痛感する現場の過酷さ
被爆から2か月後ほどたった1945年10月5日に撮影された映像に、日赤の皮膚科医だった愛之さんの姿がありました。診察を受ける男性は手にやけどをしています。同じ皮膚科医である息子の森田健司さんは、「2か月たってこの状態。相当深いやけどだと思う」と話します。
森田健司さん
「これだけの深いやけど。しかし、治療といってもできるのは消毒とガーゼ交換。写っている薬品も消毒液だけ、無力さを感じていたのではないか」
原爆で4人の家族を奪われ、負傷者の治療に奮闘した愛之さん。1950年に、皮膚科を開業しました。健司さんは、「父はある意味でいい加減でしたよ」と笑います。大学時代、ヨット部だった愛之さんは、県の体育協会などにも所属していました。開業医でありながらも、試合や国体への同行などで医院を空けることも多かったそうです。
「原爆に遭って、父の人生観は変わったと思います」。幼少期から不思議に感じていたことがありました。
「家に仏壇がなかったんです。それと周囲の友だちは13回忌とか法事があるのに、うちはなかった。遺骨がなかったことも影響していたかもしれないし、よく神も仏もないって言うけど、無力感もあったのかもしれない」
それでも、8月6日の夜には、毎年、平和公園を訪れていました。そして、原爆慰霊碑だけではなく、身元が分からない遺骨7万柱が眠る原爆供養塔に手を合わせていました。
「父は、『慰霊碑に収められているのは名簿だけど、供養塔には遺骨がある』とよく言っていましたからね」














