戦況は悪化の一途日常生活も脅かされるように
当時の満州では、日本が戦争に負けるなど誰も想像していなかったといいます。
しかし、戦況は悪化の一途を辿り、次第に日常生活が脅かされていきました。

山本一清さん
「あれはグアムくらいから来たんでしょうね。B29の編隊が来ましてね怖いんですよね。ヒューって、音がしてドカーンって爆発するんですね。地震みたいに揺れるんですね地面が。それが40,50メートル手前まで落ちていたら、私は今はいなかったと思うんですけどね」
ソ連が満州へ侵攻

長崎に原子爆弾が落とされた1945年8月9日、日ソ中立条約を破ったソ連が、満州への侵攻を開始します。

山本一清さん
「戦車が街中を右往左往走り回って、それで反撃する者がないということが分かって、今度はトラックで片っ端から略奪という感じやったですね。時計を収集して時計をずらっとはめていた。ロシア(旧ソ連)兵がおりましたね」

略奪した時計を両腕にはめるソ連兵。
山本さんは、その光景を今も鮮明に覚えています。

山本一清さん
「ある時、学校の帰りに捕まりましてね。道の反対側から来て、銃をつけられてダバイ(来い)って言うんですよ、カモーンですよね。ダバイって言われました。そしたら、もう足がすくんで動けない言い訳して一生懸命学校に行ってるんだっていうのをロシア語でスコーラと言って、一生懸命カバンの中から教科書とかノートを見せてやっと放してくれました」
終戦から1年後、リュックサック1つで帰国した山本さんの手元には、当時の写真が1枚も残っていません。
当時のことを思い出そうと最近目にしたのは、ネット上の地図です。

山本一清さん
「確か、この通りがですね、千代田通りと浪速通りと、平安通りとあったと思います。学校か何かあるでしょ?昔からそこが学校だった。ここが校舎だったんですね。全部ロシア兵が占領して兵舎として使っていたと思います」