福山市の花「バラ」についてです。福山市で5月、国際会議「世界バラ会議」が開かれます。そもそも、なぜ、福山はばらのまちになったのでしょうか。

世界バラ会議は、1971年、ニュージーランドで始まり、3年に1度、開かれる国際会議です。世界各国から、バラの愛好家や研究者が訪れます。

福山市は会議の誘致に乗り出し、2018年のデンマーク・コペンハーゲン大会で誘致が決まりました。戦後70年以上市民と行政が進めてきた「ばらのまちづくり」が評価された瞬間でした。

バラの愛好団体「福山ばら会」の石井稔会長です。バラと市民の歩みを振り返ると、「協働のまちづくり」の原点が見えてきます。

福山ばら会・石井稔会長
「この福山のばら公園というのは、福山市がだいたい8割方、戦争の時にですね、8月8日なんですが、B29が飛んできて、焼夷弾を落として、全部焼け野原になったんですよね」

1945年、アメリカの爆撃機がおよそ5700発の焼夷弾を福山市中心部に投下した「福山空襲」。355人が犠牲となり、市街地のおよそ8割が焦土と化しました。

福山ばら会・石井稔会長
「そういった中で、バラを植えることによって、やっぱり美しい街を復活させたいっていう思いもあったと伺っているんですけど」

戦争の傷跡が癒えずにいた1950年代半ば、復興へ向けて、住民たちが千本のバラの苗を植えました。当時、バラは珍しくその美しさから持ち帰ろうとする人もいたそうです。住民たちは、夜も見回りをしてバラを守ってきました。

公園をバラで埋め尽くそうと、住民とともに動いたのが当時の徳永豊市長でした。徳永市長の回顧録は、次の様な言葉で結ばれています。
「福山市を、国際的なばらの都市にしてほしいのです」

福山市が2010年に開講した「福山ばら大学」。バラの栽培技術を連続講座で学べる全国でも珍しい「学校」です。この日は、25人がバラの接ぎ木を学びました。

記者「学ばれてみて、どうでしたでしょうか」
受講生「知らないことがいっぱいあるのと、一番あったのは色んなバラを見てて、関心を持つようになったのが一番大きいと思いますね」

2007年度末で、福山市のバラは55万本でしたが、2016年には「100万本のばらのまち」を達成します。倍増した背景にはばら大学修了生の活動がありました。

福山ばら大学の講師をつとめる三藤佳雄さん。JR松永駅前でバラ花壇の世話をする中心人物です。定年後の2016年にばら大学に入学するまで、バラに関わることはありませんでした。

福山ばら大学講師・三藤佳雄さん
「福山ばら大学の修了と同時にばら会に入ったんですね。それまでは家にもバラはないし、だから福山ばら大学で接ぎ木とか挿し木とか、そういうバラを育てたのが始まりなんですね」

バラの栽培には水やりや肥料、害虫・病気の対策など、多くの作業が必要です。三藤さんは、バラ花壇と関わることで経験を積むことができたと言います。1年前にリニューアルしたバラ花壇。手伝ってくれる大学生や高校生に技術を伝えているそうです。「地域でバラを育てるリーダーの養成」…。ばら大学の目標です。

福山ばら大学講師・三藤佳雄さん
「(作業は)寒いし、暑い時は暑いし、大変なけど、やっぱり頑張るのは、きれいな花を見たいというとこじゃないですかね」ON)講師「主催者の思いを理解した上で、積極的な行動をしていただけたらと思います」

バラ会議のボランティア研修会です。福山市で初めて開かれる本格的な国際会議。福山市の想定を超える207人のボランティアが国内外から見込む700人の来場者をサポートします。研修は去年8月から続いています。

ボランティア「福山の伝統文化とか、そういうことも、あまりよく分かっていないので、それをもっと知りたいなと」
「大会中ずっと笑顔で過ごすことが大切だと思うので、そういうメンタルを整えていきたいと思います」

ボランティアは、会場運営の補助、通訳の支援、救護室への案内の3種類…。研修は、バラ会議直前まで続きます。みんなで創る世界バラ会議福山大会。バラが咲き誇る5月、福山の街に注目が集まります。



(スタジオ)
福山には「ローズマインド」という合い言葉があります。「思いやり、優しさ、助け合いの心」を意味しています。そのマインドを大切にしている地域だからこそ、世界中から訪れるバラの愛好家が「福山に来てよかった」と思ってもらえれば・・・