
7月末、自宅の縁側にいるときに墜落していく飛行機を目撃しました。
末田武雄さん
「あのとき空襲警報になっとったんじゃろうのう。家でむしろをかぶってこうやって見よった。ずっと上がったところへ茶臼山…小茶臼いうのがあってね。あの上をすーっと落ちた。尻から煙をすーっと吐きよったね」
8月6日のことは特に鮮明に覚えています。
末田武雄さん
「友達と遊びに行っとるときに原爆におうた。目の前がばーっとオレンジ色になってね。一呼吸置いてぶわーっと爆風が吹いた」
自宅には、黒焦げになった兵士が避難してきました。
末田武雄さん
「4、5人じゃったかね…輪になってねあぐらをかいて、みな座っていた。ものも言わんかったのあのとき。お椀かぶったような姿で。おでこから下は黒い、ここから上は焼けとらん。あれはよう覚えとる」
自宅のすぐ前の道路には市内中心部から郊外に向けて逃げる人が列を作っていました。
末田武雄さん
「やけどしたりけがした人がとっととっと上へ向けて逃げていった。ぞろぞろ歩く沢山の人が行ったよ。」

その数日後から町内には強烈なにおいが充満したと言います。
末田武雄さん
「えらいくさいと思っても1日じゃ終わらんかった。今だに鼻につくあの匂いが。表現しにくいが魚焼く匂いとは違うね…。かなりの期間じゃったというのは覚えとる。そりゃそうよね、あそこで何日も焼いたんじゃろうけ小学校で」
避難所となっていた己斐小学校やその近くでは3000近い遺体を数日間にわたって焼いたと言われています。
俵もみが行われたのは、その、たった2ヶ月後でした。