山梨学院大5年目に箱根駅伝初出場
異色の成長過程と言っていい。
高校は京都の山城高、大学は山梨学院大出身。高校時代に全国大会出場はなく、大学でも箱根駅伝には4年間出場できず、留年して5年目に初めて出場した。4年時には11月の全日本大学駅伝のエース区間を任された(最長の8区で区間8位)が、故障で正月の箱根駅伝に出場できなかった。
「ケガをしたときに留年を決意しました」
リハビリ・トレーニングで固定バイクを2~3時間漕ぎ続け、スイミングで7000m(2時間半)をひたすら泳ぎ、ウォーキングも5~6時間歩き続けた。回復してからも1回のジョグの時間を60~90分から90~120分に増やし、フリーの日にも180分走った。
「(全区間20km強の)箱根駅伝を目指すのに何でそんなに走るの? と言われましたが、箱根駅伝出場から実業団チーム入り、実業団に入ったらマラソンをやって、行く行くは世界で戦いたいと思い始めていましたから」
実業団入りはできた。だが世界に近づく走りはできなかった。複数のチームで走ったが十分な結果を残せず、22年から市民ランナーの環境で競技を続けている。
その環境でも自己変革ができた。きっかけはその年10月の舞鶴赤レンガハーフマラソンだった。
「記録は1時間06分38秒でしたが優勝したことで、周囲の人たちが喜んでくれる、盛り上がってくれることに気づきました。実業団ではタイムを要求されましたし、自分もマラソンで目指すタイムが出せないとわかったら、あきらめるクセがついていた。それが舞鶴の優勝で自分でも周囲を盛り上げることができると実感できたんです。笑ってゴールしたり、高校生と一緒に走ったり。自分の喜びを外に向けて表現することで、周囲の人たちも喜んでくれる」
練習への取り組み方も、その経験で変化が生じ始めた。ポイント練習の負荷を大きくしたが、ストレッチを丁寧に行い、ジョグは走りの技術を意識してケガの回避に努めた。
「ジョグもハムストリング(大腿部裏)やお尻の大きな筋肉を使い、腰の入った走りを意識し始めました。腰が落ちたジョグはワンモーション、余分な動きが走りの中に入ってケガにつながる可能性があります。ボストンの翌日、大腿前の筋肉痛がなかったので、やってきたことは間違いではなかった」
1~2月には6週連続でレースに出場し、その中で2週連続2時間14分台で走ることができた(京都マラソン2時間14分15秒、大阪マラソン2時間14分36秒)。それに加えてボストンの起伏をイメージできる原谷で、スピードに変化を付けたメニューを徹底して行った。ボストンの2分34秒の入りは、森井の中では裏付けもあっての走りだった。多少の驚きはあっても、慌てることはなかったのである。

















