平良啓子さん87才。78年前のきょう、沈みゆく船、対馬丸に乗っていた一人です。生存者が少なくなる中、苦悩を抱えながら語り部として活動を続けてきました。

太平洋戦争の末期、1944年にサイパンの陥落後、戦況が悪化し沖縄での決戦が目前に迫るころ、食糧難などから日本政府は「足手まといになる」と県民10万人を県外へ疎開させる計画をおし進めました。

安波国民学校の4年生だった啓子さんも母親と離れ、兄や姉、家族5人と対馬丸に乗ることが決まりました。そこに同級生のいとこ、時子さんも加わります。

平良啓子さん(87)
「時子が『啓子も行くし私も行きたいっ』て言い始めて、時子のお父さんが『行くな、あんたは向こうの家族じゃないからダメ』って言っても泣き出して喚いて」

いつも一緒に遊んでいた啓子さんと時子さん。2人は遠足にでも行くようにワクワクしながら乗船しました。

8月2 1日、「対馬丸」は那覇港から長崎にむけ出航。しかし出航前からアメリカ軍に攻撃目標としてとらえられていた「対馬丸」。22日午後10時12分、アメリカ軍の魚雷が命中しました。

平良啓子さん(87)
「寝ていた時にボンっと、すでに船は半分沈んでいました、燃え始めていた」

攻撃からわずか10分ほどで「対馬丸」は鹿児島県の悪石島沖に沈没。乗船者およそ1800人のうち、生存者はわずか300人。子どもの犠牲は分かっているだけでも1000人を超えました。

平良啓子さん(87)
「人かモノか、ドンドンガサガサぶつかり合って人のざわめく声しか聞こえない、助けて助けてお母ちゃん怖いよ、お父さん怖いよという声しか耳に入っていない」

海に投げ出された啓子さん。途中、時子さんを見つけ一緒に樽につかまりますが大波にさらわれ見えなくなってしまいます。

啓子さんは死体をかき分けていかだにたどり着き、6日間漂流。その後、島に流れ着き奄美大島の島民に助けられ沖縄に戻りました。

しかし-

平良啓子さん(87)
「時子が帰って来ないでしょ、時子のお母さんに言われましたよ『あんたは元気で帰ってきたね啓子はうちの時子は太平洋に置いてきたの』って言われた。それであれから私は泣いて家に隠れてあれから出られなかった、悲しくて今もそう思いますよ」

娘を失った悲しみの中にいた時子さんの母親の言葉。そして、集落から対馬丸に乗船した40人のうち、37人が帰らぬ人となったことを聞いた啓子さん。幼い心には、その事実が生き残った罪悪感として重くのしかかりました。

平良啓子さん(87)
「本当に私は悲しい思いね、被害者と思っていたけど加害者であるんだ私も…という気持ちになっていて辛いです、今でも」

対馬丸を生き延び、その後地上戦を経験した啓子さん。沖縄戦で2度、生死の境を切り抜けた啓子さんは、生き残った苦悩と「二度と子どもたちを戦争の犠牲にはしない」との思いから語り部としての活動を続けてきました。"

平良啓子さん(87)
「戦争のために一生心に傷が残っているっていうのはこんなことじゃないですか、許せない、だから戦争というのはもう個人的な責任になってしまっている気がして辛い、悲しいですよ」

遠く、海に沈んだ子どもたちの無念。そして”あの戦争”を生き抜いた者の心に残した癒えぬことのない痛み。それを知ることが、今に生きる私達が悲劇を繰り返さないためにできることなのかもしれません。