「NO WARプロジェクト」と題して未来に戦争の教訓をつないでいく特集をお伝えしています。

きょうは終戦直前に山梨県富士吉田市を襲った吉田空襲。当時米軍の戦闘機を目撃した女性の証言です。

空襲の被害は免れたものの戦地で家族を亡くした女性が語る思いは…


富士吉田市に住む渡辺徳江さん91歳。


日本舞踊の師範として伝統を受け継ぎ、伝えています。6歳から始めた日本舞踊ですが、踊ることができない時期も。



工場に学徒隊として動員 渡辺徳江さん:
戦争中はもっぱら日本舞踊なんて考えていませんでしたね。踊りのおの字もなかったね。


戦時中、富士吉田市には、「武蔵航空」という飛行機工場がありました。




勤労学徒隊を含むおよそ2000人が働いていて、77年前、14歳だった渡辺さんもそのうちの1人でした。


工場に学徒隊として動員 渡辺徳江さん:
飛行機を作るのに電ドル(電気ドリル)は手に響くし嫌だと思っていたが、やらないわけにはいかない。

戦況が悪くなっていた1945年。ほぼ毎日、空襲警報が鳴り響きました。


渡辺徳江さん:
しょっちゅう敵機がくる。電気消して、防空壕もあまりなかったから、とにかく机の下にもぐれとか。だから昼間遊びに行くことはなかったね。


空襲警報に工場の作業。勉強も習い事もできませんでした。

そして終戦直前の1945年7月30日。午後1時半ごろ。