この夏、4年ぶりの甲子園へと挑む興南。沖縄大会を制してから1週間。変わらず熱のこもった練習で甲子園へと備えています。

禰覇盛太郎主将
「優勝決まった直後は実感わかなかったんですけど、みんなからおめでとうだったり、
甲子園も頑張れよっていうふうに言ってもらえて、また甲子園でも、上を目指すという志でみんなこの1週間頑張っているので、甲子園でも頑張りたいです」

復帰50年となる節目の年、監督として7回目の出場となる夏の甲子園。チームを指揮する、我喜屋優監督も特別な思いを抱いています。

興南高校・我喜屋優監督
「色々なことあったな、というような50年でもあるし、まぁ50年前ということは当然パスポート、そして船に乗って鹿児島、そこから夜行列車に乗って大阪までと、本当に甲子園というところは遠いなという感じ」

我喜屋さんが、はじめて甲子園の土を踏みしめたのは、まだ本土復帰前の1968年。キャプテンとしてチームをまとめた、興南高校はそれまで、1勝が最高だった沖縄県勢の歴史を塗り替え、ベスト4に進出しました。

なかなか全国で勝つことが出来なかった沖縄に、勇気を与えました。

興南高校・我喜屋優監督
「国際通りをパレードしてるんですよ。今の県庁前から安里まで抜けるんですけど、もうびっちりで1時間以上かかったんじゃないかな抜けるのに。子どもですから、ちょっとした
おれたちスターみたいに扱われてるみたいな、そういう錯覚されるぐらいの雰囲気がすごかったです」

卒業後、我喜屋さんは、沖縄を離れ、社会人野球の大昭和製紙へ。静岡、北海道と、渡る中で、外から沖縄の本土復帰、発展を見守ってきました。

興南高校・我喜屋優監督
「意外と沖縄にいるときには、あまり気が付かなかった、当たり前に思っていたから。色々な歴史も、戦争の傷跡も当然ある、あらためて復帰となると、いよいよ同じ日本に戻ってきたんだなって感じになったなと」
「自分たちの力を見て、海を渡って、違う甲子園で活躍、優勝するようなチームを見て、その差を感じて乗り越えないと、いつまでも、井の中の蛙の沖縄になっちゃうよと。いうことは感じました。」

34年間、社会人野球やクラブチームの選手・監督として、都市対抗野球での活躍を見せる一方、沖縄を離れる中で感じた県外とのギャップ。規律や人間性、逆境に立ち向かう力を、
ふるさとに還元しようと、2007年に母校、興南高校の監督に就任。その年に、チームを24年ぶりの甲子園に導きました。

さらに大きな花が開いたのは2010年。エースの島袋洋奨やキャプテン我如古盛次を中心に、一丸となった興南ナインが、甲子園で躍動しました。

沖縄県の悲願だった夏の制覇を、春夏連覇の偉業で叶え、再び、全国に興南旋風を巻き起こしました。

我如古盛次主将(当時)
「沖縄県民で勝ち取った優勝だと思います」

興南高校・我喜屋優監督
「沖縄中が勝ったのと、また初めての優勝旗を見たいということと、もうカメラで頭に当たるし、もう本当に肩はたたかれるし、でもそこで、おじいおばあが、泣いている姿を見たんですよ。」
「なんか色々な思いがあったんだなと分かったし、本当に高校野球に託されていたんだなと、その時は熱くなったあの雰囲気というのは今でも忘れません」


興南高校・我喜屋優監督
「節目に本当に私も恵まれていて、何かあるのかなと、ありがたいなという反面、自分自身がまた地に足をつけて、もう一回全国のレベルに対して、再チャレンジして2度も3度も沖縄は強いし、また優勝したというようなその高校野球になっていきたいなと思います」

甲子園の活躍に憧れ、あとに続こうと興南の門を叩いた選手たちとともに、復帰50年の今年、我喜屋優監督は再び甲子園の土を踏みしめます。