今から78年前の1945年7月10日、仙台の中心市街地はアメリカ軍による空襲で焼け野原と化しました。市内中心部では、ほとんどの建物が焼失して、市役所の辺りからも仙台駅の駅舎が見えたと言われています。空襲による犠牲者は1000人を超え被災した人は5万7000人に上りました。仙台空襲について取材を進めると、見えてきたのは、焼夷弾による非人道的な爆撃の実態でした。
逃げ惑うしかなかった「仙台空襲」
当時B―29が爆撃を開始したのは1945年7月10日の午前0時3分。これに対し空襲警報が出されたのは午前0時5分でした。つまり、警報が出された時にはすでに爆撃が開始されており、市民は不意を突かれ、逃げ惑うことしかできませんでした。一方で、空襲を事前に察知して避難し助かった人たちもいました。

仙台空襲について調べている郷土史家の石澤友隆さん(89)は「アメリカ軍は空襲を予告するビラを事前に撒いていた。市民の何パーセントかは空襲があるのを知っていたのではないか」と話します。
まずは仙台空襲の被害について振り返りたいと思います。