特集は終戦80年です。戦時中、現在の柴田町にあった海軍の火薬製造工場で働き終戦を迎えた男性が栗原市にいます。
男性は旧若柳町の町長を長く務めましたが、戦争の経験を口にすることはありませんでした。その男性が自らの体験を語り始めました。男性の思いに迫ります。
戦後80年 初めて語った戦時中の日々
菅原郁夫さん
「滅私奉公 死をもって国のために働く、という教育を受けてきた。国のために命を滅ぼす、ということが本来の姿だと(教育を)受けて育った子どもだった」
栗原警察署で開かれた講演会。
菅原郁夫さん(94)はこの日、人前で初めて戦争体験を語りました。

菅原郁夫さん
「人前で私は今まで話したことはありませんでした。また戦争の話なので話したくもなかった」
ハクチョウの越冬地として知られる栗原市若柳地区。菅原さんはここで昭和5年=1930年に生まれました。14歳のとき、海軍のパイロット養成制度である飛行予科練習生の試験に合格し、1945年3月に国民学校高等科を卒業しました。

入隊通知が来るまで、教師の勧めで柴田町にあった火薬製造工場「第一海軍火薬廠」で働くことになりました。

菅原郁夫さん
「不純物が入っているかどうか見て、乾燥室に入れて乾燥する仕事だった。(薬品を)練り合わせる仕事の人は爆薬作りだから手は真っ黄色になるし、顔まですっかり黄色くなって。わかる、どこの工場に配属されているか。食堂でみんなご飯を食べるときに集まるから『あの方はあそこの工場にいるんだ』と」