1945年6月19日から20日にかけた「静岡空襲」では、市民約2000人が犠牲となりました。戦後77年。当時の事を知る人が減っていく中、最近になって空襲の記憶を語りだした人がいます。

「静岡空襲犠牲者追悼のつどい」。空襲のあった6月19日にあわせて毎年開催されています。今年も空襲を体験した人など15人が犠牲者を悼み、黙とうや献花などを行いました。

当時の記憶を語ったのは、5歳で静岡空襲を体験した中村弘武さん82歳。この集いで語り部を務めるのは初めてです。

<中村弘武さん>
「なぜ、助かったかというと、爆弾の破片や爆風そうしたものを、前を逃げてる人たちがクッションになってくれてね」

第二次世界大戦末期の1945年、6月19日深夜。アメリカ軍のB29・137機が静岡市内を襲いました。空襲により、市民およそ2000人が犠牲になりました。

当時5歳だった中村さんは島田市に疎開していましたが、アメリカ軍が国内を攻撃する様子をみた両親は「死ぬのなら家族そろって」と、子どもたちを静岡に呼び戻しました。

<中村弘武さん>
「どうせダメだから一緒に死ぬって言ったのに、いざとなると逃げるだよ、人間って」

6月19日の深夜、けたたましい音で目を覚ました中村さん。家の外に出て静岡市内が空襲にあっていることを知ります。祖母、母、妹と共に逃げ出しました。どこに向かうかもわからず、道に横たわる多くの人を見ながら走ったといいます。

<中村弘武さん>
「前はずっと遺体。死人ばっかり。頭の上はB29が大きく映っていましたよ。あぁもう駄目だと思うんです」

現在の静岡済生会病院まで逃げたところで、少し先の田んぼに爆弾が落ちました。

<中村弘武さん>
「突然ね、真っ暗になっちゃった。シーンとしてね。今までね、泣いたり騒いだりしたのが、シーンとしました」

中村さんは気を失ったのです。目を覚ました5歳の少年の瞳に映ったのは、なんとか生き延びた家族と焼け野原になった静岡のまちでした。

<中村弘武さん>
「ここに立つと悲しくなるね。みんなが爆風のクッションとなって死んでくれた。死んじゃった。だから助かっちゃったじゃん。だからすまないな。ごめんね。ありがとうというような気持ちというのも、あるです」

中村さんはこれまで自身の体験を積極的に話してきませんでした。しかし、不穏な世界情勢などを見て、自分たちの世代が戦争を語り継ぐ必要を感じているといいます。

<中村弘武さん>
「戦争というのは何もへったくれもなく、みんな関わりを持たされてしまいます。とんでもないことになってしまうんだよというのを忘れないでほしいと思います」