「ここに大体、700名のご遺体が並べられていたわけです。700名ですね」
13年前、宮城県東松島市にある宮城県立石巻西高校の体育館は遺体安置所になった。齋藤幸男さんは当時、教頭として学校の避難所運営にあたっていた。

棺などあるはずもなく、ブルーシートに包まれた遺体が体育館を埋めた。穏やかな顔をしている人、恐怖の表情を浮かべた人…それ以上は目を覆ってしまった。
遺体番号“205番”。自分の勤める学校の体育館に自分のおじの遺体があった。人間が数字で管理される残酷な現実。津波が奪っていったのは親族の命だけではない。

「『先生、息子が帰ってきました』と報告に来た母親がいました。息子が体育館に帰ってきたってことはご遺体になって帰ってきたってことになるわけですよ」
石巻西高では、在校生9人と新入生2人が犠牲になった。齋藤さんは大きなショックを抱えながらも、避難所運営の陣頭指揮にあたっていたため悲しむ暇さえなかった。それでも夜になると、胸が押しつぶされそうになった。

「君たち11人の悔しい思いを私なりのやり方で伝えて、同じようなつらい思いをする子が出ないようにするよ」
齋藤さんの残りの人生の使い方が大きく変わった瞬間だった。