祈りの言葉

水俣病犠牲者慰霊式にあたり、患者、遺族を代表して祈りの言葉を捧げます。
水俣病は、今年で公式確認70年の節目の年になります。これまで、様々な出来事が繰り返されてきました。水俣病によって大切な家族を亡くしたり、自ら健康被害を受けたり、差別や偏見、そして地域の分断など、世界に類を見ない公害を私たちは経験してきました。
私たちが経験した水俣病は、今もなお、差別や偏見、そして救済問題など、簡単に終わることのできない重大な出来事です。
怒りや不満を並べれば言い尽くせないほど、長い人生を私自身経験してきました。
私はその怒りと不満を乗り越えて、今日ここに立っています。
水俣病犠牲者慰霊式での名簿奉納は、長年にわたり認定患者に限るとされておりましたが、実行委員会や関係者の皆様の努力とご理解があり、令和5年から無記名プレートにて、すべての被害者を対象とした奉納が実現できました。
このことは、もやい直しの歴史的な大きな前進であると確信しております。
これまで70年の間、行政や学校教育、そして多くの人たちの努力によって、現在では水俣病への差別や偏見は以前と比べると随分少なくなってきたように思います。
私自身、公式確認の翌年、1957年、水俣から北へ15km離れた芦北町女島(めしま)の緒方家に生を受けました。当時、緒方家は漁業を職業として、地域の人たちと共に日々不知火海に出て、主にカタクチイワシを水揚げしていました。
私が生まれ育った女島は、対岸に天草の島々が一望でき、晴天の時は高台に立てば長崎の雲仙がかすかに望める、とても自然豊かな場所です。
1959年9月、同居していた祖父・福松が原因不明の症状を発症し、2か月後に苦しみもがいて亡くなりました。その後、急性劇症型のメチル水銀中毒だったことが判明しました。当時の湯浦町で最初の犠牲者でした。
2歳違いの妹は、胎児性患者としてこの世に生を受けて、まさかの人生を強いられてしまいました。1960年、熊本県が調査した毛髪への水銀含有量検査では、私自身も2歳の時、226ppmの水銀が検出されていて、濃厚なメチル水銀中毒を受けています。
しかし当時は、水俣病被害者への偏見・差別があり、認定申請などできず、まして、長期にわたり水俣病と向かい合う勇気などなく、認定申請も自ら拒んでいました。
そういう中、1995年、政治解決が行われました。38歳になった私は、みんなと一緒に自分の水俣病に1つの区切りをつける目的で、覚悟を決めて、政治解決に申請しました。
しかし、行政はこの解決策で、私に救いの手を差し伸べることはありませんでした。切り捨てられた思いになり、諦めることのできなかった私は、裁判でなく公害健康被害補償法に基づく認定申請を10年間繰り返しました。
当時、押さえきれない社会に対する怒りが続きました。
そんな時、ある言葉を思い出しました。私は20歳になって、生まれ育った女島から建具職人を目指して水俣の建具店に修行に入りました。
私を育ててくれた今は亡き師匠が、最初の日に私に言った言葉があります。
「人間には間違いや失敗がつきものである。ただ、その失敗を決して失敗で終わらせてはならない。その失敗に対して深く反省すれば、必ず前進がある。失敗は成功の基と言うだろう」と話してくれました。
その言葉を大切にして、私は10年間の修行を経て、30歳で独立し、現在の水俣市月浦で建具店を経営し、日々物作りに励んでいます。
建具職人を目指してから50年近くになります。
漁業一家から建具職人の道を選んだことは、緒方家一族が水銀被害に遭ったことが一つのきっかけだったとしても、私は今の自分の人生に悔いはありません。
10年間の自身との戦いを経て、私は2007年3月15日に、2266番目の水俣病患者認定を受けました。同時に、チッソ株式会社、そして当時の潮谷義子熊本県知事から心からの謝罪を受けました。
私を人として救ってくれた潮谷さんは、それまでの怒りと不満の人生を希望への人生と導いてくれました。
人を信じ続けたことは間違いではなかったと、今でも思っています。
2007年9月、私は水俣病資料館の語り部となりました。水俣に学ぶ肥後っ子教室で水俣を訪れる熊本県内の小学5年生を中心に、事実と真実を語り続け20年近くになります。
また、昨年、水俣病から学ぶ取り組みをしている地元の水俣高校生と出会いました。先日、手作りの記録集を届けてくれました。
私たちが学生の頃は、水俣病に目を背け、決して向き合うことなどなく、ほとんどが苦しみの記憶しかありません。
70年経った今、行政や多くの人たちのこれまでの努力もあり、起きた出来事と正面から向かい合い、そして自ら教訓を社会に発信している水俣高校の生徒の姿に、市民として感銘を受けました。
そして昨年に続き、令和8年度のJNC新入社員の皆様に、研修会の中で語り部講話が実現しました。加害企業と被害者の壁を乗り越えて、人として向かい合い、私の胸の内を打ち明けることができました。
水俣病を学び、会社のこれからの発展に繋げたいという目的は、とても素晴らしいことだと思います。
水俣は2013年、水銀に関する水俣条約を教訓として、この水俣から世界に発信することができました。
水俣条約に問われているのは、水銀の削減という現象的な事だけに留まらないと思います。人間の心が問われていると私は思います。
正直に間違いを認めることのできない人間の心。
傷つき殺されてゆく人々を家族だと思わない人間の心。
そして声を上げることさえ出来ずに倒れていった人々、
この世に生まれてくるはずだった多くの命。
魚や鳥などの奪われた数多くの命を、
無かった事にして忘れようとしてしまう人間の心が問われているのではないでしょうか。
私が思う水俣病の真の解決とは、全ての人達が、起きた出来事と向かい合い、心から反省をし、教訓に繋げることができた時だと思います。
「反省とは、決して悔やむものではない。反省とは、前進するための土台作りである」という言葉があります。水俣病問題は人間が起こしてしまった出来事ですから、私たちの努力で問題を解決し、次世代の子ども達に水俣病を教訓として伝えたいと思います。
水俣病で失われたすべての生命に対して、ご冥福をお祈りすると共に、お一人お一人の貴重な人生を無駄にしないことを、今日ここにお誓い申し上げ、祈りの言葉といたします。
令和8年5月1日 患者・遺族代表 緒方正実
【関連記事】
<式辞>水俣市 高岡利治市長
<祈りの言葉>石原宏高 環境大臣
<祈りの言葉>熊本県 木村敬 知事
<祈りの言葉>チッソ 山田敬三 社長
<祈りの言葉>児童・生徒代表 吉田泰さん









