定説を覆す内容が次々と
再調査まで、井上は飛田場長からの情報を疑うことはなかったが、刑死者が仮埋葬された場所を調べていくと、飛田場長から報告があった墓地は違うことが分かった。井上は、供養塔を建立した一人で、長らく火葬場に勤務して「供養塔」の題字を書いた西川清治氏に話を聞くことにした。すると、これまで井上が抱いていた先入観や知識と異なる内容が相当でてきたという。
西川氏は1948年12月23日のA級戦犯処刑の時も火葬に立ち会っている。井上は当時の様子を聞き取り、記録として書き留めた。
<井上忠男「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」人と日本(行政通信社 1975年新春号)>
(西川清治氏からの聞き取り)
久保山火葬場は米軍に接収されたとはいえ、毎日、米兵が勤務したり監視にやってくることはなかったという。現実には、占領軍が優先的に火葬場を無償使用するというのが、接収の姿であった。ただし、A級戦犯七氏が火葬にふされるときには、米軍の警戒と監視は厳重であり、米兵たちは緊張していた。その朝、遺体の護送車を尾けようとしてまかれた新聞記者たちは、急拠さきまわりして火葬場に来ていたが、米兵たちにたちまち追い払われた。







