1953年12月14日、スガモプリズンで処刑されたA級戦犯7人とBC級戦犯53人の遺骨が横浜市の久保山斎場で掘り出された。米軍は、戦犯たちの遺体を火葬したあと、箱に入れて持ち去り、遺族に返すことはなかった。しかし、箱に入り切れなかった遺灰が火葬場の残灰を埋める穴にあることが確認され、当時、復員局法務調査課長だった井上忠男は各所と調整を取り、掘り起こした残灰を分骨して遺族へ返した。それから21年後、再度、井上が調査したところ、当時語られていたこととは違う真実が明らかになったー。
遺灰分骨から21年後の再調査
1953年12月10日の毎日新聞には、戦犯たちの遺体が火葬された横浜市の久保山火葬場の飛田美善場長を取材した記事が掲載された。飛田氏が戦犯たちの遺骨をひそかに火葬場に埋葬し、供養塔まで立てて冥福を祈ってきたという内容だ。
一方、当時、復員局法務調査課長だった井上忠男は、この報道から22年後の1975年、遺骨が見つかった経緯について「人と日本」(行政通信社)に「巣鴨戦犯遺骨の埋葬秘話」と題してまとめていた。井上は元陸軍大佐で法務省参与として長く戦犯裁判の調査に関わった人物で、たまたまその前年、遺骨が伝達された記録をまとめることを依頼されて、再調査をしたのである。遺骨返還から10年以上経った1967年にも、井上はすでに火葬場を引退していた飛田場長に、一部の刑死者が仮埋葬された場所について尋ね回答を得ていたが、間もなく飛田場長は急逝された。







