高野連の「処分」ではなく「指導」の必要性

広陵高校の事件後、私はマスコミからたくさん取材を受けました。その時に、取材をしている人が異口同音に「今回の処分が正しいでしょうか」と尋ねてくることに、ものすごく違和感を覚えました。
私は「処分なんてありえない」と考えています。高校がすべきは「指導」です。この暴力をなくすために「どうしたらいいのか」という指導こそが必要であり、その指導を一番しなきゃいけないのは、主催者の高野連です。暴力事件が「延々と続いている」ということは、高野連の指導が「失敗してきた」ということを認めなければならないですよね。
そもそも、週刊新潮にイチローさんの証言のような記事が出たところで、高野連は反応しません。もし内容がでっちあげだったら「けしからんじゃないか」と言わなければいけないし、それが事実だったら「こんなことがあったのかと過去にこういうことがあったのを直さないといけない」ということを言わないといけないでしょう。
文部科学大臣も「暴力はやめましょう」と呼びかけていますが、そんなことで通るのかと私は思います。スポーツの本質を理解した指導こそが必要です。
スポーツは「反暴力」から生まれた文化
私はこの番組でも何度も喋っていますが、「スポーツは反暴力から生まれた、そういう暴力反対から生まれた文化である」という考え方です。
「暴力を振るえば、自分たちのやっている野球を否定することになる」という本質的な認識が、私はこれまで高野連から聞いたことがありません。
高野連は処分を下すことはあっても、「未来への指針や教育方針というものをきちんと打ち出した」のは聞いたことがありません。要するに処分なんていう言葉を、全部高校生に対して使うべきではないと私は強く思います。
私は、高野連が掲げる「三つのF」、すなわち「フレンドシップ」「フェアプレー」そして「ファイティングスピリット」についても疑問に思っています。特に「ファイティングスピリット」についてですが、ボクシングなんかでもレフェリーのかけ声は「ボックス」であって、「ファイト」とは言いませんよね。
このファイティングスピリットという言葉が本当に正しいのか、私は問いかけたい。大谷選手のホームランを見ていて、あれはファイティングスピリットから生まれたものなのか、とも疑問に思います。
だから、高野連自体が、考え方を根本的に見直してほしいと思っています。スポーツとは何か。要するに、暴力の中から(民主主義社会の中から)生まれた、暴力反対の文化であると、これをね、やっぱり高校生に言わないと駄目ですよ。
ただ「殴っちゃいけないよ、暴力はいけないよ」と言うだけでは通じません。「5発は駄目だけど、1発や2発は構わないだろう」と思っている人はまだいるみたいですからね、私はその現状を憂いています。