石垣島事件でBC級戦犯に問われ28歳で処刑された藤中松雄ら701人の戦犯たちの遺稿をまとめて、1953年に出版された「世紀の遺書」。この遺稿集はなぜ作られることになったのか。発起人となったのは、絞首刑を言い渡され、1年7ヶ月のうちに26人の仲間を見送ったあと、終身刑に減刑されて生き延びた男性だったー。
◆同じ運命の中に生き残った我々の責任

遺稿を編纂して発刊することを企図したのは、福岡の西部軍事件で死刑囚となった冬至堅太郎だ。「世紀の遺書」は1953年12月1日に初版が刊行された。巻末には、刑死、あるいは獄中で亡くなった計1068人の名簿があるが、その前に巣鴨遺書編纂会の編集後記がはさまれている。発刊の3ヶ月前、9月1日の日付だ。
(「世紀の遺書」編集後記)
戦犯者として我々四千人は世界の憎悪の只中に於いて、或は刑場の露と消え、或は八年に亘って内外の獄舎に繋がれて来た。その当非は後世、史家の判定にまつとして、少なくとも戦争に参加し、悲惨なる結果を世に招来した一員として、我々は現在与えられた運命の中に於いても、可能な限りの価値を生み、世にのこすべき義務があると思う。然るに刑死獄死せる囚友の遺稿を見るに、自己の死よりも肉親を思い、国家世界を憂えて平和再建への切々たる祈りを遺している。それはまた遙か万里の涯よりこれに参加せんとの必死の努力に外ならず、これら一千名の悲願を世に伝え将来に生かすことこそ、同じ運命の中に生き残った我々の責任と痛感せざるを得なかった。
この念願より、昨二十七年八月同志糾合して遺書編纂会を結成し、戦犯遺稿集刊行の企図を全国の遺族に訴えたところ、予期以上の反響を呼び、続々と資料が寄せられて、あたかも遺族はこの機会の到来を一日千秋の思いで待たれた感があった。未決勾留中の死歿(ぼつ)者は正しくは戦犯者と云えないが「戦争裁判のため斃(たお)れた人々」と云う意味に於いて同様に呼びかけ、これまた快く賛同を得たのであった。
◆いかに苦心し、心血を注いで意志を伝えようとしたか

BC級戦犯は、アジア太平洋の49法廷で裁かれている。戦犯刑務所の状況は様々で、スガモプリズンで書かれた遺書は、机の上でしたためられているが、場所によっては筆記用具も紙もない中、指を噛み切って鮮血でシャツに辞世を遺すなど、必死の思いで家族に自分の声を届けようとしたという。収録された701篇の中には、韓国、台湾出身者の遺稿も含まれていた。編纂作業の際には、韓国出身のスガモプリズン在所者が内職の収入を集めて編纂費の足しにと持ってきてくれたという。またマヌス島から帰ってきたばかりの台湾出身者が趣意書の発送などを夜遅くまで手伝ってくれたこともあり、「この書は国境も民族の差別もない」と余録に残している。
(「世紀の遺書」編集後記)
戦犯刑務所は巣鴨の外、大陸南方諸島五十余箇所に及ぶが、その大半は筆紙の所持を厳禁し、或は筆紙を与えても処刑後遺稿を没収した。また監視の目をくぐって書き遺されたものの、現地に秘匿したまま遂に持ち帰れなかったものもあり、これらの実情より見て集め得る遺稿は多くとも死歿(ぼつ)者の三分の一と推定していたが、事実は予想の二倍、七○一篇に達した。これは現在集め得る殆どすべてと云ってよいであろう。この中には最近比島マヌス島よりもたらされたものの外、他の遺稿中に記録されたもの、原本のまま遺族にも渡されず都内に保管されていたもの等、当会に於いて発見した数十篇をも含んでいる。これも固より遺族の御賛同のもとに収録したものであって、諒解を得られなかったため割愛したものは四遍に過ぎない。尚、韓国台湾出身者の分は遺族との連絡困難な為、同郷の在所者と協議の上これを収録したことをお断りして置く。

蒐集した資料は遺書以外に、日記、手記、随筆、詩歌、書翰、伝言等、少なくとも故人の心を知り得るものはすべてに亘っている。これらは便箋や旧軍用罫紙に書かれたものの外、包装紙、トイレットペーパー、莨の巻紙、書物の余白、又余白をきって貼り継いだもの等があり、紙以外にも、敷布の断片、シャツ、ハンカチーフ、板等も含んでいる。その大部分は鉛筆書きであるが、ペン書、墨書、血書等もあって、ボロボロになったものもある。これらを見るとき故人が如何に苦心し、心血を注いで意志を伝えんとしたか、またこれをひそかに持ち帰るに囚友、教誨師諸氏が如何に苦労したかが明らかにうかがわれる。