海面を滑走路代わりにして飛び立つ水上飛行機を旧日本海軍は数多く運用していました。実は福岡でも製造され、その基地もあったことはあまり知られていません。アメリカ軍が「速度が遅い」と記録していた水上飛行機までも特攻に使われていました。

「地元のものすら知らない」玄界航空基地

RKB 今林隆史記者「牡蠣小屋で有名な福岡県糸島市の船越地区ですが、この海には大戦末期の隠された歴史があります」

冬場は牡蠣小屋でにぎわう福岡県糸島市・船越漁港の一角に建つ記念碑。

大戦末期に海軍の「秘匿基地」=玄界航空基地があったことを伝えるものです。

建立されたのは戦後60年近く経ってからでした。

記念碑建立に尽力した中田健吉さん(81)「誰も知らないです。地元のものすら知らないくらいだから」

「海軍終焉の地」運用は終戦間近の数か月だけ

実家が銭湯で、兵士を受け入れていた中田さん。

知られていない基地の歴史を掘り起こすことに力を注いできました。

基地が運用されていたのは終戦間近の数か月だけです。

中田健吉さん(81)「玄界は海軍終焉の地なんだ。海軍航空隊じゃないですか、水上機といえども。ここで終戦を迎えたという意味だと思います」

航空隊の基地と言っても滑走路は無く、新たな施設も建てられませんでした。

”集落に溶け込むように”兵士は民家や寺で寝泊まり

兵士たちは民家に分れて宿泊。そのうちの1軒が当時8歳だった大部節子さんの家です。

大部節子さん(87)「あっちこっちに何か松原に隠してここは4機か5機ぐらいですかね。もう見ちゃいかん。近寄ってはいかん」

当時とほとんど変わらない2階のこの部屋に整備兵たちが寝泊まりしていました。

大部節子さん(87)「『私はここで死ぬ覚悟でしたから』と。なんかものすごくここに名残り惜しいようなそういう気持ちを持ってあったみたい」