《わが子も犠牲に―「1分あれば…」震災遺構で知った"あの日"》

 翌日、どうしても訪ねたい場所がありました。太平洋沿いの海岸から4キロほど離れた距離にある震災遺構です。その場所には、震災発生の当日まで、大勢の子供たちが通っていた石巻市立大川小学校がありました。

本震の51分後。北上川を遡った津波が、大川小学校の児童74人、教職員10人の命を奪いました。

只野英昭さん「初めて?」
高田晃太郎さん「初めてです」

只野英昭さん
「ロバと来たと聞きましたけれど、どこまで行くんですか?」

高田晃太郎さん「北海道から千葉です」

震災遺構となった大川小学校で、語り部を務めている只野英昭さん。震災の記憶をつないでいます。

大川伝承の会 只野英昭さん
「当時3年生の長女、5年生の長男、2人が通ってたんですけれど、結局、あの日の津波に2人とものまれちゃって、長女が亡くなって…。長男は助かった児童4人のうちの1人です」

只野さんの長男・哲也さんを含め、本震のあと、その場にとどまり、助かった児童は4人だけ。当時、小学3年生だった長女の未捺(みな)さんは、津波の犠牲となりました。

校庭脇に続く、緩やか斜面には『津波到達点』と記された白いプレートが建てられています。

大川伝承の会 只野英昭さん
「あの白いプレートの場所で、こういう風にしいたけの実習授業を毎年3月にしていた。それなのに、あの日、地震が起きてから51分もの時間があるのに、そこに登らせてもらえなかったっていう部分が、遺族にとってみれば『なんで?』と思っています」

高田晃太郎さん(元新聞記者)
「あの白いプレートのところより上に登ってたら…?」

大川伝承の会 只野英昭さん
「助かっていた…という話です。ちなみに校庭から走れば1分」

防災体制の不備などを巡って、児童23人の遺族が、石巻市と宮城県を提訴。損害賠償金14億円あまりの支払いが確定しています。

高田さんが『津波到達点』のプレートが建てられた斜面を、一歩ずつ確かめるように登っていきます。

高田晃太郎さん(元新聞記者)
「裏山がどんな感じなのかなっていうのは、やっぱり一番経験したかったことなので。こんな緩やかな傾斜で登れるんだから『揺れの後に津波が来る』っていう認識があれば、絶対に避難したわけですから…」

「ただ震災前の自分だったらどうするのかなっていうのは考えますね」

大川伝承の会 只野英昭さん
「寒いので体調を崩さないように、頑張ってください」

高田晃太郎さん
「どうもありがとうございました」