戦後分かった攻撃成功率は…

1944年11月、回天は初めての実戦で停泊中の補給艦ミシシネワを撃沈。しかしこれ以降、アメリカ軍の警戒が強まり、移動中の船を狙うよう作戦変更を強いられた。前が見えない中、動いている物体に、推測で体当たりすることは困難を極め、失敗が続いた。

新聞は「神風」ならぬ「神潮」特攻隊として回天の戦果を華々しく伝えたが、防衛省の研究員が、戦後日米に残された資料を検証した結果、回天の攻撃成功率は…わずか2%だった。

回天搭乗員の訓練が行われていた島、山口県大津島では毎年11月、ミシシネワを撃沈した部隊の慰霊祭が開かれる。回天の開発者、黒木博司少佐の妹、教子さんの姿もあった。参加したのは300人以上だったが、確認できた回天搭乗員は、2人しかいなかった。

撃沈されたアメリカの補給艦ミシシネワの関係者も。乗員を救助したパイロットの娘夫婦だ。

(ミシシネワの乗員を救助したパイロットの娘夫婦)
「あれは絶望的に恐ろしい兵器だった。すごい時代だね」

元回天搭乗員の岡本さんが訓練していた、大分県の大神回天基地。その一角には、内部も正確に再現された回天の模型が設置された。

(訪れた人)
「狭いね。土管みたい」
「戦争末期、特攻に追い込まれていった事実を後世に残すため作られたということで。命を粗末にしている感じが…これに乗って若い人が行ったということを思うと…胸がいっぱいになる」